負けたはずの裁判で、声は守られると示された判決。

2026年9月30日、声優の津田健次郎さんがTikTokの運営会社を相手に起こしていた裁判で、東京地裁は「請求棄却」を言い渡しました。

この4文字が見出しで先に広がったので、津田さんが負けたと受け取った人も多かったようです。

ところが同じ判決の中で、裁判所は「人の声は肖像と同様に個人の人格の象徴だ」とはっきり書いていました。

いったい何がどうなっているのか、戸惑うのも無理はありません。

今回は、この判決で何が決まったのかと、AIの声まね動画がどこから先でアウトになるのかを、わかりやすく解説していきたいと思います。


請求棄却なのに声は守られた判決

報道によると、動画共有アプリのTikTokで、名前の分からないアカウントが、津田さんの声にそっくりなナレーションを付けた動画を投稿していたそうです。

投稿は2024年7月から2025年9月までで、都市伝説やオカルト、雑学を扱った動画が少なくとも188本。

再生回数に応じた報酬は、月に50万円から75万円にのぼったと訴状には書かれていたとのこと。

津田さんは、アニメ『呪術廻戦』の七海建人や『ゴールデンカムイ』の尾形百之助などを演じている人気声優です。

その声で、知らない誰かが月に何十万円も稼いでいた。

ファンならずとも、ぞっとする話ですよね。

 

津田さん側は、この動画がパブリシティー権の侵害にあたるとして、TikTokを運営するシンガポールの法人に、動画の削除を求めました。

パブリシティー権というのは、有名な人の名前や姿が持っている「人を引き寄せる力」を、本人だけが使えるようにする権利のことです。

これに対して運営会社側は、ナレーションの声は「普遍的な男性のもの」で、混同されるおそれはないと反論していました。

投稿者は、友人の声をAIに学習させて作ったと説明しているとも主張していたそうです。

声の権利について裁判所が判断を示したのは、これが初めてと報じられています。

 

では、なぜ請求は棄却されたのでしょうか。

理由はシンプルで、問題の動画がもう削除されていたこと。

運営会社側は、2025年11月に裁判が起こされたあとで動画が削除されたことを明らかにしていて、「津田さんが裁判を起こす利益はなくなった」と主張していました。

もう消えた動画について、消してほしいと求める意味はない、という言い分です。

裁判の結果には「却下」と「棄却」があって、却下は中身を審理しないで退ける、いわば門前払いのこと。

棄却は、中身を審理したうえで、求めていたことを認めないという結論です。

今回の判決は棄却で、実際に声についての判断まで示しています。

言い分どおりなら門前払いの却下になりそうにも見えますが、なぜ棄却だったのかは、判決文の全文が出ていないいまの時点では分かりません。

「棄却」の2文字だけで、津田さんの言い分が全部しりぞけられたわけではない、ということですね。

日本俳優連合も判決の日に、津田さんの活動を支持するコメントを出しています。

判決文の全文を確かめたうえで、あらためてコメントするとのこと。


AIの声まねがアウトになる場面

判決文の全文はまだ公開されていませんが、国は判決より先に、声についての物差しを出していたんです。

法務省の検討会は2026年8月、生成AIによる声の無断利用について、考え方をまとめた報告書を公表しました。

報告書は、人の声を「人物識別情報」、つまりその人を見分けるための情報だと位置づけています。

そのうえで、声を勝手に使うと権利の侵害になりうる例として、次のようなものを挙げていました。

  • ボイスメッセージやボイススタンプ
  • オーディオブックやナレーション
  • AIカバー(歌手の声で別の曲を歌わせるもの)
  • 声が鳴る目覚まし時計やカーナビ、スマートスピーカー
  • 広告のナレーション

どれも「その人の声だから、お金を払ってでも聴きたい」もので、声そのものが売り物になる使い方です。

今回の動画も、ナレーションで人を引き寄せて再生回数を稼ぐ形だったので、リストにある「ナレーション」に近い形でした。

報道によると報告書は、侵害の程度によっては、声を作るAIアプリのように生成AIのサービスを提供している事業者も一緒に責任を負う可能性があるという考えまで示しているそうです。

今回訴えられたTikTokの運営会社とは別の、声を作る道具を提供した側の話になります。

 

では、本人の声を使っていなければ大丈夫なのでしょうか。

運営会社側が言っていた「友人の声を学習させた」という説明は、まさにそこを突いたものでした。

報告書の考え方では、似ている程度に加えて、本人の声を思い出させるような情報が添えられているかも合わせて見て、聴いた人が「これはあの人の声だ」と受け取れるかどうかで判断するとされています。

決め手は、聴いた人の耳。

つまり、材料が誰の声でも、できあがった声が津田健次郎に聞こえるなら、それは津田健次郎の声を使ったのと同じ扱いになりえるんです。

 

ちなみに、モノマネ芸人の声まねはどうなるのかも、報告書はきちんと書いていました。

声まねは、たいてい芸をする人が自分の名前を出して披露するものです。

聴く人も「あの芸人がまねている」と分かったうえで楽しんでいます。

そのため報告書は、本人と誤解されるような使い方でないかぎり、権利の侵害にはあたらないという考え方をとっていました。

逆に言えば、芸人の名前を出さず、本人が話しているように見せかけたら、話は変わってきます。


消えた動画には命令が出せない

とはいえ、モヤモヤは残りますよね。

188本の動画を上げていた人には、何も起きていないように見えます。

ネットでも「やったもん勝ちになってしまう」という声が上がっていました。

 

今回の裁判で訴えられていたのはTikTokの運営会社で、求めていたのは動画の削除。

動画を上げたのは、名前の分からないアカウントです。

アプリの中にある動画を消せるのは運営会社なので、削除を求めるなら、相手は運営会社になります。

法務省の報告書も、ネットに上げられた権利侵害のコンテンツは、それを管理している運営会社に削除を求められるという立場です。

 

ところが、その動画は裁判の途中で消えました。

もう無いものを「消しなさい」と命じることはできません。

運営会社そのものに責任があるかどうかまで判決が触れたのかは、報道からは分からないまま。

この判決で退けられたのは、津田さんの声ではありません。

退けられたのは、「消してほしい」という頼みのほうでした。

しかもその頼みは、判決が出る前にもう叶っていたんですよね。

ニュースの見出しの「請求棄却」が指していたのも、じつはこの頼み。

声優仲間の緒方恵美さんは、2024年の時点でこの問題を訴える記事を紹介していました。

声優たちは、今回の判決よりずっと前から同じ被害を訴えていたんです。


動画を消せば逃げ切れるのか

では、バレたら消せば済むのでしょうか。

消したからといって、使ったことまで消えるわけではありません。

報告書は、パブリシティー権が侵害された場合、民法709条にもとづいて損害賠償を求められると書いています。

削除を求めるのと、お金を払わせるのとは、別々の道なんです。

今回の裁判が扱ったのは、そのうちの削除の道だけでした。

 

ただ、お金を払わせる道には、先に越えなければいけない壁があります。

動画を上げた人の名前が分からないままでは、そもそも裁判を起こせません。

そこで使われるのが、情報流通プラットフォーム対処法という法律にもとづいて、運営会社などに投稿した人の情報を出してもらう「発信者情報の開示」の手続きです。

ネットの誹謗中傷で、投稿した人を突き止めるときにも使われています。

 

津田さん側がこの先どう動くのかは、報道では伝えられていません。

 

声優の有志の会によると、AIで声優の声を無断に使った動画は、2024年1月だけで500件以上あったとのこと。

声が守られるという判断が一度出たことは、同じような目にあった人が裁判を起こすときの心強い材料になりそうです。

声優の梶裕貴さんは、法務省の検討会に出席した日に、こう書いていました。

その「ここから」の先で、今回の判決が出た形です。


声まね動画を作る前に見ておくこと

いまは、スマホのアプリで簡単にAIの声を作れる時代。

好きなキャラクターの声でしゃべらせてみたい、と思ったことがある人もいるかもしれません。

 

報告書の考え方をもとにすると、気をつけたいのは次の3つです。

  • 聴いた人が本人の声だと思う作りになっていないか
  • 本人の名前や演じた役の名前を添えていないか
  • その動画や音声で、再生の報酬や売り上げを得ていないか

3つとも当てはまるほど、今回の188本に近づいていきます。

逆に、自分の声でモノマネを披露して、自分の名前で出しているなら、それは芸の範囲です。

声優の山寺宏一さんは、2024年に声優の有志が無断の生成AIへの反対を呼びかけたとき、「個人で楽しむ分には全然いいんじゃないかと思っています。公にSNSなどで、ネットの世界に出してしまうことは問題だと思います」と話していたと、テレビ朝日の報道ステーションが伝えていました。

声優の団体も、2023年からこの問題で声を上げ、国への働きかけを続けています。

見る側としてできることも、いくつか。

好きな声優の声で、見覚えのない動画が流れてきたら、まずは本人や事務所の公式アカウントで告知されているかを確かめること。

告知が見当たらなければ、アプリの報告機能で知らせることができます。

顔と違って、声は聴いただけでは本物かどうかを見分けにくいもの。

だからこそ、公式の告知を確かめるひと手間が、いちばん確かな見分け方になります。

「棄却」の2文字にびっくりした人ほど、中身を知ると見え方が変わる判決でした。

次に津田さんの声を聴くときは、それが本物だと安心して楽しめる場所が、少しずつ増えていくといいですね。