カープの初優勝を支えた投手、池谷公二郎が、2026年10月29日に74歳で亡くなりました。

ネットには「池谷さん」と名字だけ書いた投稿がいくつも流れ、カープファンには、それだけで誰のことか伝わっていたんです。

去年11月のレジェンドゲームで元気に投げる姿を見て、背番号11のユニフォームにサインをもらったばかりだったファンもいます。

その一方で、名字だけの投稿を見て「どちらの池谷さん?」と首をかしげた人がいたのも、無理はありません。

今回は、池谷公二郎がどんな投手で、ユニフォームを脱いだあとも広島でどう親しまれてきたのかを、仲間とファンの言葉からわかりやすくまとめていこうと思います。


球団が伝えた訃報と半旗のマツダスタジアム

広島球団は10月29日、OBの池谷公二郎(いけがや・こうじろう)が多発性骨髄腫のため亡くなったと発表しました。

通夜と告別式は、親族と関係者だけで行われるとのこと。

その日のマツダスタジアムでは秋季練習に半旗が掲げられ、選手たちはユニホームに喪章をつけて練習したと報じられています。

新井貴浩監督は「若い頃から気さくに声をかけていただき、また、励ましていただいた優しい先輩でした」とコメントを出しました。

 

体操の池谷幸雄・池谷直樹の兄弟を思い浮かべた人もいたようですが、あちらの読みは「いけたに」で、こちらは「いけがや」です。

カープを見てきた人にとって、「池谷さん」は昔からひとりだけでした。

お笑いコンビ・ザ・ギースの尾関高文は、会ったときの手の感触をこう書き残しています。

優しいのに、握る手は力強い。

この握手の印象は、このあと出てくる仲間たちの言葉とも、きれいに重なっていきます。

 

初優勝の18勝と翌年の沢村賞

池谷公二郎は1952年6月28日、静岡県の生まれです。

静岡商から社会人の金指造船、日本楽器を経て、1972年のドラフト1位で広島に指名され、1974年に入団しました。

名前が全国に知られたのは、プロ2年目の1975年。

この年に18勝を挙げ、球団初のリーグ優勝に大きく貢献したと、各紙が伝えています。

同じ1975年に20勝したもう一人の柱、外木場義郎は、訃報を受けてスポニチアネックスにこう話しました。

「池が18勝。私が勝てなくても、池が勝ってくれた。頼もしかった」

佐伯和司も15勝していて、15勝以上の投手が3人そろっていたのがチームの強みだった、とも振り返っています。

 

そして翌1976年には、今度は自分が20勝で最多勝を取り、投手にとって最高の栄誉とされる沢村賞に選ばれました。

1979年には5年連続の2桁勝利となる12勝を挙げ、日本シリーズでは2連敗のあとの第3戦に先発して7回2失点で勝ち投手になり、球団初の日本一にもつながっています。

通算成績は325試合に登板して103勝84敗10セーブ、防御率は4.13でした。

 

記録と同じくらいファンの記憶に残っているのが、投げ方です。

グラブを高く上げて、右腕を腰の後ろまで大きく回すダイナミックなフォームは「シーソー投法」と呼ばれ、そこから直球中心の強気なピッチングを続けていたと報じられています。

子どものころキャッチボールで真似をした、という声もネットに並んでいて、アニメ制作者の赤井孝美もそのひとりでした。

ホームランを打たれた瞬間、マウンドから打球のほうをバッと振り返る。

そこまでを一続きで真似していた、というのが、いかにもあの時代の野球少年らしいところですね。

しかも、抑えた場面だけでなく打たれた場面まで覚えられているところに、真っすぐで勝負し続けた投手の姿が残っています。


マウンドを降りても広島の画面にいた

1985年に現役を引退したあとは、広島と巨人で投手コーチを務めました。

カープでは山本浩二監督のもと、同じOBの安仁屋宗八と並んで投手陣を見ています。

安仁屋はその当時を、「ワシとイケが投手コーチだった。イケがベンチで、ワシがブルペンだった」と振り返りました。

選手が練習で手を抜いていると、はっきり厳しい言葉をかける人だったそうで、「野球に対する情熱は、誰よりも熱かった」とも話しています。

 

2005年からは地元・広島のテレビ局でプロ野球の解説を務めながら、夕方のニュース番組にもレギュラーで出ていました。

つまり広島で暮らす人にとっては、球場に行かなくても、テレビをつければ会える人だったということ。

去年11月の「カープレジェンドゲーム2025」にも出場していて、そのマウンドを覚えているファンもいます。

レジェンドゲームで負け投手になって、本気で悔しがって客席を沸かせた。

現役を退いてからずいぶんたっても、マウンドの上では勝負師のままだったんですね。

 

ただ、体は楽ではありませんでした。

外木場義郎は、最近はOB会に姿を見せない日があり、体の具合を心配していたと明かしています。

監督と投手コーチとしてともに戦い、引退後も同じテレビ局で解説をしてきた山本浩二は、「何度もがんの治療を受けて、ここまで来た」と話しました。

最後のやりとりは、山本浩二の誕生日だった10月25日。

池谷公二郎から、動画でお祝いのメッセージが届いていたそうです。

「話すのも大変だったと思うのに、私のことを気にかけてくれていた」と振り返り、「真っすぐで優しく、相手を気遣う人柄で、周囲から愛されていた」とも語っています。

広島OB会長の大野豊も、「プロに入りたいという気持ちにさせてくれた大先輩」と悼みました。

 

「池谷さん」で通じた人

仲間からは「池」「イケ」という愛称で呼ばれ、ファンからは「池谷さん」と名字で呼ばれる。

街で見かけて名字で呼びかけたら、笑顔で手を振ってくれた、という思い出を書いたファンもいました。

沢村賞を取ったエースが、街なかで「池谷さーん!」と呼ばれて、笑顔で手を振り返す。

だから、訃報まで名字だけで書かれていたのも、広島ではそれで通じるくらい、池谷公二郎が身近な人だったしるしなんですよね。

もちろん、「どちらの池谷さん?」と首をかしげた声は、広島の外から見たときの、ごく自然な反応でした。

レジェンドゲームで負けて悔しがっていた姿と、話すのも大変だったはずの時期に山本浩二へ送った誕生日の動画を並べてみると、最後まで勝負にも人にも真っすぐな人だったのだと、胸がいっぱいになります…。

池谷公二郎さんのご冥福をお祈りいたします。