朝、玄関で子どもを送り出すところ。

たいていの家は、いってらっしゃいのひと言で終わりますよね。

ロバート秋山の家では、そこにお菓子がひとつ入るそうです。

しかも渡す相手は、中学1年生になった娘。

 

2026年9月6日の深夜に放送されたテレビ朝日系『有吉クイズ』で、本人がそう明かしていました。

翌7日にはネットでもずいぶん広がって、リプ欄をさかのぼってみたかぎりでは、叩く声は見当たりません。

ただ、褒められている場所が少しだけ意外でして。

 

今回は、この朝のお菓子が6年も続いている理由について、調べたことをまとめていきたいと思います。

中1の口に毎朝ひとつ

まず、番組で何が話されたのかを押さえておきましょう。

報道によると、秋山はこう切り出したそうです。

「オレも、毎朝ひとつ(子どもに)口に入れていますよ、お菓子」

「今、中1なんですけど、6年間続けています」

 

朝ごはんの話でも、お弁当の話でもありません。

玄関を出ていく直前に、口の中へお菓子をひとつ放り込む。

それだけの、ほんの数秒の受け渡しです。

 

はじまりはコロナ禍のころでした。

学校へ向かう子どもがマスクをしていて、たまたま持っていたグミを、マスクを下げてポンと入れてみたとのこと。

そのとき返ってきたのが「見たことのない笑顔」だったと本人が話しています。

ここからが、いかにも秋山らしいところ。

その顔をもう一度見たくて、翌朝からは、ただ渡すのをやめたそうです。

かわりに演じはじめたのが、お菓子を持ってくるおじいさんでした。

「もう行くんか?」と声をかけながら、じいさんのキャラのまま、毎朝ひとつ渡していく。

6年たったいまも、その設定は生きているそうです。

 

番組でVTRを見ていた霜降り明星のせいやとヒコロヒーも、そろって感激していたと伝えられています。

ヒコロヒーは「めっちゃいい父ちゃん。めっちゃステキ」と言葉にしていたとのこと。

たしかに、聞いた瞬間にあたたかい気持ちになる話です。

ネットにも、かわいい、うらやましい、うちもやればよかった、という声が並んでいました。

ただ、そこで終わってしまうと、この話はただの「いいパパのエピソード」で消えていきます。

もう少しだけ、中をあけてみましょう。

仕込んでいるのは父親のほう

引っかかったのは、報道の中にさらっと入っていたこの一行でした。

毎日違うお菓子を渡したかったので、バレないように準備していた、というくだりです。

これ、読み流しやすいのですが、けっこうな仕事でして。

 

毎朝ひとつということは、それだけの数の買い物が要ります。

同じものが続かないようにするなら、買い物のたびに何を買ったか覚えていないといけません。

しかも子どもに見つかってはいけないので、置き場所も要ります。

渡す一瞬は数秒でも、その手前には、買って、隠して、朝までに取り出す、という段取りが毎回あるわけで。

おまけに本人はおじいさんを演じています。

6年も同じキャラを崩さずに続けるというのは、朝の忙しい時間にやることとしては、なかなかの根気です。

 

ただ、このおじいさんという設定、根気だけの話でもなさそうでして。

父親が父親のまま毎朝お菓子を渡すと、それは親からの世話になります。

世話というものは、受け取る側が大きくなるほど重たくなっていくもの

ところが渡しにくるのがおじいさんなら、話が変わります。

親子の外側にいる誰かが、勝手にやって来て、勝手に置いていくだけになりますから。

中学生になった娘が付き合いやすいのは、たぶんこちらのほうですよね。

 

つまり朝のお菓子は、手間がまるごと父親の側に乗っています

続いているものを外から見ると、私たちはつい「親子で続けている」と思ってしまいますよね。

けれど、実際に積み上がっているのは、親のほうの手間だけだったりします

子どもの側は、口をあけているだけ。

それでいいんです。

 

ここまでなら、よくできたお父さんの話として気持ちよく終われます。

問題があるとすれば、その先でして。

手間を持っている側は、だんだん自分から「やめよう」と言い出しにくくなっていきます。

理由はひとつで、やめようと口にした瞬間、それが「自分が飽きた」という告白に聞こえてしまうから。

6年ぶんの買い出しと、6年ぶんの隠し場所と、6年ぶんの演技を積んだあとでは、なおさらです。

だから、この手の習慣はたいてい、誰も終わりを言い出さないまま、ある日ふっと消えていく。

中学入学の朝に出た一言

ところが秋山は、そこで一度立ち止まっています。

娘が中学へ上がるとき、秋山のほうから「もう、やめるか?」と聞いたそうです

返ってきた答えが「まだ、やる」でした。

それで、いまも続いていく。

報道されている流れは、これだけです。

 

ネットで目についたのも、じつはここでした。

かわいい、でも、いい話でもなく、この一行に反応が集まっています。

自己満足になっていない、というひと言。

ここが、たぶんこの話のいちばん深いところを言い当てています。

 

ここで、はじめの絵がひっくり返りました。

6年続いたのは、父親ががんばって続けたからではありません

中学へ上がるところで、朝のお菓子は一度、父親のものから娘のものへ渡っているんです。

 

「もうやめるか?」という問いは、形の上では続けるかどうかを聞いています。

けれど中身を見ると、聞いているのはそこではありません。

確かめているのは、朝のお菓子がもう誰のものなのか、というほうです。

そして娘が「まだ、やる」と答えた瞬間に、答えが出ました。

中学へ入ってからの朝は、父親が続けている習慣ではなく、娘が選び直した習慣ということ。

 

この問いが効いているのには、はっきりした理由があります。

やめるほうが先に置いてあるからです。

「まだ続ける?」と聞かれると、子どもは断りにくくなります。

せっかくやってくれているものを、自分が終わらせる形になってしまいますから。

逆に「もうやめるか?」なら、うなずくだけで終われる。

つまりこの聞き方は、子どもがやめたいときに、いちばん安く降りられるようにしてあるわけです。

親の側から見れば、自分が損をする札のほうを、先に机へ出した形。

6年ぶんの手間を持っている人が、自分から損な札を出しています

そこがすごいのであって、6年という数字のほうは、そのおまけなんですよね。

家の習慣に卒業式はない

ここからは、うちで使える話にしていきましょう。

家の中の習慣には、困ったことにひとつ欠けているものがあります。

終わりの日です。

 

手をつないで歩く。

学校まで送っていく。

一緒にお風呂に入る。

寝る前に本を読む。

出かけるときにハイタッチをする。

どれも、はじまった日はなんとなく覚えているのに、終わった日を言える人はほとんどいません。

 

学校なら卒業式があります。

習い事なら発表会や引退があって、そこで「これで終わり」と全員が知る。

終わりの日は、家にだけないんです。

考えてみると、これは当たり前のことかもしれません。

家の習慣は、誰かが決めて始めたものではないからです。

入学式のように日付が決まっていたわけでも、申し込み用紙を書いたわけでもなく。

なんとなく始まったものには、なんとなくしか終わりが来ません

はじまりに宣言がなかったぶん、終わりにも宣言がないというだけの話でして。

 

だから終わり方は、だいたい2つに分かれます。

ひとつは、子どもが先に降りる形。

ある朝いきなり手を振りほどかれたり、風呂の戸を閉められたりして、親のほうが後から気づきます。

もうひとつは、親が先に忘れる形。

仕事が立て込んだ週にうっかり飛ばして、そのまま次の日も飛ばして、いつのまにか無くなっていく。

 

どちらも、責められるような話ではないと思います。

ただ、あとから思い出そうとすると、いつまでやっていたのかを誰も言えません。

子どもの側にも、なぜ終わったのかは残らないままです。

親が飽きたのか、自分が大きくなったからなのか、そこは説明されていませんから。

言い方を変えると、家の習慣はたいてい、事故みたいに終わります

 

秋山の家がやったのは、そこに一度だけ区切りを作ったこと。

中学入学という、家の中でも数少ない「節目らしい節目」のところで、口に出して聞いた。

それだけのことなのに、終わり方の性質がまるごと変わります。

やめてもいいことになっているか

では、うちでは何をすればいいのでしょうか。

続けるべきかどうかを考えると、たぶん答えは出ません。

かわりに、当てる問いを1つだけ持っておくと、ぐっと楽になります。

うちの朝や夜にも、気がつけば何年も続いているものが、ひとつくらいはあるはずです。

それは、いつやめてもいいことになっているか。

 

やめてよいことになっているなら、続いているぶんは子どもが選んだぶんということ。

親しか決められないなら、続いているぶんは親の勢いということになります。

どちらが悪いという話ではありません。

ただ、後者のまま何年も走ると、やめたいと思ったときに、子どもが言い出せなくなります

親を悲しませる役を、自分が引き受けることになってしまうので。

 

とはいえ、聞くのがこわいというのも本当ですよね。

たずねた瞬間に「じゃあ、もういい」と返ってくるかもしれません。

そうなったら、積んできたぶんが全部おしまいになる気がします。

その怖さは、まっとうなものでして。

ただ、聞かずに済ませたところで、終わりが来ないわけではありません。

来る時期を、こちらが知らないだけ。

どうせいつか終わるのなら、知らないうちに消えるより、聞いたその日に終わったほうが、たぶんお互いに軽く済みます。

 

聞くのは毎日でなくて大丈夫です。

むしろ毎日聞かれるほうが重たいですから、節目に一度で足ります。

  • 学年が上がるとき
  • 部屋を移すとき
  • 制服が変わるとき

そういう、家の中で数少ない区切りのところで、ひとつたずねてみる。

そして、聞き方は秋山にならって、やめるほうを先に置いてみてください

「もうやめるか?」のほうが、子どもはずっと降りやすくなります。

 

もちろん、聞いた結果、その場で終わってしまうこともあるでしょう。

それでも、黙って消えるのとはまったく違うものが残ります。

終わった日が分かるからです。

子どもの側にも、自分で決めたという記憶が残る。

逆に「まだやる」と返ってきたら、そこから先は、親が続けているものではなくなります。

秋山の家の6年目が、ちょうどそういう朝だったわけで。

 

毎朝お菓子を口に入れる家は、そう多くないと思います。

ただ、真似ができるのはお菓子のほうではなく、あの朝に出た短い問いのほうでして。

うちのぶんも、次の節目にひとつだけ聞いてみたいところですね。