2026年8月19日ごろ、東京・大手町の平将門の首塚で、ある配信者が石碑によじ登りました。

抱きついて奇声。

その様子が生配信され、切り抜きがSNSに回りました。

ここまでなら、よくある迷惑配信の話です。

問題は、このあとでした。

3日後の2026年8月22日、東京と埼玉に1時間100ミリを超える雨。

さらに翌日の午前2時ごろ、東京23区で震度5弱。

丑三つ時です。

ネットは「将門公の祟りだ」という声で埋まりました。

今回は、首塚がそもそもどんな場所なのかというところから、「祟り」と呼ばれてきたものの正体まで、順番に見ていきたいと思います。

大手町のビル街に将門の首塚だけが残る理由

場所は、東京駅から歩いて10分ほどの千代田区大手町。

大手銀行や商社の本社が並ぶ、日本でもいちばん地価の高いあたりです。

その真ん中に、ビルの敷地をくり抜くような形で、石碑と数本の木がある一角だけが残されています。

これが将門塚、いわゆる平将門の首塚です。

この投稿は1500万回以上読まれています。

不動産の話としては、笑い話で済む場所ではないわけです。

 

平将門は、平安時代の中ごろに関東で兵を挙げた武将でした。

自ら「新皇」と名乗って朝廷に反旗をひるがえし、940年に討たれています。

首は京へ送られてさらされたものの、その首が東へ飛んでこの地に落ちた、というのが古くからの言い伝え。

そのあと周辺で水害や疫病が続き、村人が「将門公の祟りだ」と恐れたとも伝わります。

荒れ果てていた塚を1307年に整えたのが、時宗の僧である他阿真教(たあしんきょう)という人です。

将門に「蓮阿弥陀仏」という法名を贈り、自分の字を刻んだ板碑を建てました。

供養したところ疫病が止まった、というところまでが言い伝えの型になっています。

 

ここで押さえておきたいのが、将門という人の扱われ方です。

祟る怨霊として恐れられている一方で、神田明神では関東を守る神様として祀られています。

朝廷に立ち向かった英雄という顔も、ずっと残ってきました。

怖い存在と、頼れる存在。将門公はその両方を同時に持っているわけです。

 

いまの塚は東京都指定の旧跡で、2020年から2021年4月にかけて大きな改修も行われました。

囲いが外れたのは、2021年の4月でした。

まわりのビルが何度も建て替わっても、ここだけは動かされていません。

そこに、2026年8月の配信は入っていきました。

配信者が首塚の石碑によじ登って炎上した騒動

2026年8月19日ごろ、配信サイトのKickで生放送をしていた配信者が、この石碑によじ登りました。

抱きつくような格好のまま、大きな声を上げ続ける。

その様子が1分ほどに切り取られて、X上でものすごい勢いで回りました。

眷属(けんぞく)というのは、神様に仕える者のことです。

 

あわせて、下半身を露出したとされる画像も出回っています。

ただしこちらについては、配信の本編には映っていないと報じられていて、扱いが分かれているところです。

いま確かなのは、石碑によじ登って騒いだ映像が残っていることです。

 

2026年8月21日、本人はXで謝罪の投稿を出しました。

「平将門公に関する自分の行動について、配慮を欠いた行為だったと深く反省しています」

あわせて、配信アカウントの停止期間が延長されたことも伝えています。

 

動いたのは配信サイト側だけではありません。

塚を守っている保存会の事務局がある神田神社は、同じ2026年8月21日の取材にこう答えています。

「動画配信迷惑行為に関しましては丸の内警察署に相談しております

石碑そのものが壊れたという話は出ていません。

それでも、すでに警察が関わるところまで進んでいます。

記録的な大雨と丑三つ時の震度5弱が続いた3日間

騒動から3日後の2026年8月22日、関東は昼過ぎから空が真っ黒になりました。

気象庁が出したのは、記録的短時間大雨情報。

17時までの1時間で、東京都板橋区付近に約120ミリ以上。

北区付近と埼玉県戸田市付近で約100ミリ。

豊島区付近にも、17時20分までの1時間で約100ミリの雨が降ったとみられています。

1時間に100ミリというのは、傘をさしても意味がないレベルの降り方です。

 

そして日付が変わった2026年8月23日、午前2時ごろ。

緊急地震速報の音とともに、関東が大きく揺れました。

震源は茨城県南部、深さおよそ70キロ、地震の規模を示すマグニチュードは5.9。

茨城、埼玉、千葉、そして東京23区でも震度5弱を観測しています。

鉄道が止まり、けがをした人も出ました。

 

午前2時という時間は、昔の言い方だと丑三つ時と呼ばれるあたりです。

怪談で必ず出てくる、あの時間帯。

さらに震源の茨城県南部というのは、将門が討たれたと伝わる坂東市のある地域でもあります。

 

石碑によじ登った配信。

3日後の記録的な大雨。

その翌日の、丑三つ時の地震。

ここまで並ぶと、SNSが静かなままでいられるはずがありませんでした。

笑いながら書かれた投稿ですが、この空気が半日で関東中に広がりました。

「祟りじゃ、将門公の祟りじゃ」という言い方が、あちこちで見られるようになっています。

 

もちろん、大雨は前線のせいで、地震はプレートのせいです。

科学の説明はきちんとついています。

それでも、この3日の並びを見て一瞬だけ結びつけたくなる気持ちは、正直よくわかります。

都市伝説に加わりそうな展開、という言い方がぴったりです。

そして実は、将門塚の祟りというのは、まさにこういう形で積み上がってきたものでした。

祟りの逸話は1923年の関東大震災から始まった

千年前からずっと恐れられてきた場所。

首塚について、たいていの人はそう思っています。

ところが、いま語られている祟りの逸話は、そのほとんどが100年以内のものです。

始まりは1923年、関東大震災でした。

 

当時、首塚は大蔵省の敷地の中にありました。

震災で庁舎が倒れ、塚のあたりを更地にして仮の庁舎を建てる計画が立ちます。

そのあとに起きたことが、いまも語り継がれています。

1926年、大蔵大臣の早速整爾が病死。

1927年、工事部長の矢橋賢吉が死去。

2年続けてです。

その計画が持ち上がってから数年のあいだに、省内で亡くなる人やけがをする人が続いたと伝えられています。

 

そして、大蔵省の動き方がまた徹底していました。

仮庁舎を取り壊し、1927年に鎮魂碑を建て、1928年3月には神田明神の宮司らを招いて鎮魂祭を開いています。

役所が、千年前の武将の霊を鎮める式を主催したわけです。

それでも1940年、落雷で庁舎は焼けました。

1941年にも、あらためて鎮魂が行われています。

 

ここで、日付をもう一度並べてみてください。

工事の計画が持ち上がったのが1923年。

亡くなったのが1926年と1927年です。

3年から4年、空いています

その場で何かが起きたわけではありません。

あとから振り返った人が、3年も4年も離れた出来事を一本の線でつないでいった、ということです。

祟りの逸話は、そうやって作られてきました。

 

いま出回っている「首塚伝説」も、だいたいこの形にまとまっています。

後半のGHQの話には、まだ続きがあります。

GHQのブルドーザーと長銀ビルの机の向き

戦後、焼け野原になった大手町へGHQが入ってきます。

一帯を整理して、首塚のあたりを駐車場にする計画でした。

ところが工事に入ったブルドーザーが横転し、運転していた人が亡くなったと語り継がれています。

掘り返した地中からは、墓石のようなものが出てきた。

地元の町内会長らが「古代の王の墓だ」と陳情を重ね、計画は取りやめになりました。

 

そして戦後には、もう一つ有名な話があります。

1961年に建った、日本長期信用銀行のビル。

塚に面した部屋の行員が次々に体調を崩したと伝えられ、お祓いが行われました。

そのあと、社内で妙な工事が入ります。

塚に背を向けないよう、机の向きを全部そろえて窓のほうへ回したという話です。

 

これは1社だけの話ではありません。

周辺のビルには、塚へ背中や建物の裏を向けない配置にしたところがあるとされています。

塚を見下ろす向きに窓を作らなかったビルの話まで残っています。

日本でいちばん地価の高い場所で、そこまでやっているわけです。

 

この「長銀の悲劇」は、今回の騒動でもすぐ引っぱり出されました。

忘れたのか、という言い方で。

60年以上前の社内の噂が、いまも現役で使われています。

 

逸話が全国区になったのは、1976年でした。

NHKの大河ドラマ「風と雲と虹と」で、将門が主人公になった年です。

怨霊のイメージが広がったのはこの前後だ、と見る人もいます。

ドラマの出演者やスタッフが首塚へ参拝した記録も残っています。

 

そして線をつなぐ癖は、いまも変わっていません。

2020年、大手町の再開発で首塚が工事に入ったときのことです。

将門の胴を祀るとされる場所は、茨城県坂東市にあります。

6年前にも、同じ線が引かれていたわけです。

 

一方で、塚が守られてきたのは不思議な力によるものではありませんでした。

1961年に整備工事が行われ、周辺の企業が保存会をつくって掃除と慰霊を続けています。

つまり将門の祟りは、千年かけて育った恐怖ではありません。

この100年、人が少しずつ書き足してきたものです。

爆笑問題の太田が首塚を蹴って干された話

逸話の中でも、いちばん有名な現代の一件がこれです。

爆笑問題の太田光さんが、まだ若手だったころ。

心霊スポットを回るテレビのロケで、この首塚を訪れています。

 

そこで太田さんは、石碑にドロップキックを入れました。

お祓いで渡されたお札も、わざと落として踏みつけたと語っています。

カメラマンの手が震えていた、と本人がラジオで振り返っていました。

 

そのあと、爆笑問題には仕事がほとんど来なくなります。

相方の田中さんは「1年間まったく仕事がなかった」と回想しています。

不敬をやった直後に、現実の不運がぴったり重なったわけです。

 

ただ、この時期に何があったかも、はっきりしています。

爆笑問題は1990年に、それまでの事務所から独立していました。

仕事が消えたのは、その独立をめぐるいざこざのほうが理由だったと語られています。

実際、太田さんの奥さまで現在の事務所社長も、失礼をした事実は認めたうえで、祟りとの関係は否定しています。

それでもこの話は、30年以上たったいまも生き残りました。

今回の騒動でも、まっ先に引き合いに出されています。

本人が認め、周りが笑い、否定まで済んでいる話が、それでも消えない。

 

そして首塚では、こんな一件も起きています。

ここ、読み飛ばさないでほしいところです。

逮捕されたご本人が、自分で「罰が当たった」と言っている。

捕まった理由は防犯カメラと捜査のはずなのに、本人の中では祟りの話になっています。

暗示というのは、こういうふうに内側から完成します。

神田明神と成田山を同じ日に参らないという決まり

祟りの話には、もう一つ別の系統があります。

場所にまつわる話ではなく、人の側についてくるものです。

 

千葉の成田山新勝寺は、将門の乱を鎮めるために不動明王の護摩が焚かれたのが始まりだと伝わります。

調伏(ちょうぶく)、つまり相手を抑え込むための祈りです。

一方の神田明神は、その将門を神様として祀っている。

片方は抑え込む側で、もう片方は祀る側ということになります。

だから神田明神の氏子は成田山へ参らない。

そういう言い伝えが、江戸のころから残ってきました。

 

この禁忌が表に出た有名な例が、1976年の大河ドラマです。

将門を演じる出演者たちが、成田山の節分の豆まきへの参加を辞退しました。

将門を演じる者が、調伏の寺へは行けない。

そういう筋の通し方です。

もう一つ、知られていない禁忌があります。

桔梗(ききょう)を植えない、という決まりです。

将門の伝説には桔梗という名の女性が出てきて、裏切り者として語られてきました。

そのため将門ゆかりの土地では、いまも桔梗を庭に植えない家があるとされています。

千年前の裏切りが、花の種類にまで及んでいるわけです。

 

これが昔話で終わっていないところが、この禁忌のすごさです。

藤原秀郷(ふじわらのひでさと)は、将門を討った側の武将です。

千年前の敵味方が、いまも参拝先を決めている。

 

この系統の話が、今回の騒動でまた持ち出されました。

成田山を菩提寺(ぼだいじ)とするのが、歌舞伎の市川宗家です。

屋号でいうと、成田屋。

その市川團十郎さんに続いた不幸を、将門と結びつける投稿が広がりました。

260万回以上読まれています。

 

ただ、そこに並べられた出来事には、それぞれ当時報じられた経緯があります。

暴行事件も、相続にまつわる話も、ご家族の病気も、理由が伏せられていたわけではありません。

そして日本橋の石碑が建てられたのが2005年ごろ、暴行事件が2010年、ご家族を見送ったのが2013年と2017年です。

ここでも、何年も離れた出来事が一本の線でつながれています。

 

肝心なところを書いておきます。

神田明神も成田山も、両方お参りしてはいけないとは言っていません。

禁忌として守り続けているのは、氏子や地元の人たちの側です。

 

そして今回、その禁忌の言葉づかいまで戻ってきました。

結界が破れた、という言い方です。

江戸のころの禁忌が、2026年の大雨と地震にそのまま貼りついています。

これから起きる不運が全部祟りにされる仕組み

今回の騒ぎに合わせて、SNSではもう一つの見方が広がりました。

呪いというのは超自然の力ではなく、心にかかる暗示のことだ、という読み方です。

これが、なかなかよくできています。

 

人は誰でも、生きていれば理不尽な目に遭います。

病気になる。仕事を失う。親しい人が離れていく。

そのとき私たちの頭は、必ず理由を探しに行きます。

なんでこんなことになったんだろう、と考えて、過去の自分の行いに手を伸ばす。

あのときあんなことをしたからだ、という一本の線が引かれた瞬間に、呪いは完成します。

 

やっかいなのは、この線がどうやっても外せない形をしていることです。

何か起きれば、やっぱり祟りだと思う。

何も起きなければ、まだ来ていないだけだと思う。

どちらに転んでも成立してしまうので、証明することも、否定することもできません。

 

しかも、これは本人ひとりで終わりません。

家族が病気になった、友人が事故に遭ったという話まで、あの一件のせいだと数えられていきます。

成田屋の話が広がったのも、まったく同じ形でした。

 

今回も、それが起きています。

2023年に亡くなった別の配信者も、昔ここで悪ふざけをしていた。

そんな投稿が広がり、「死に方もよく分からなかった」という一言が添えられていました。

 

ただ、この方が亡くなった経緯は、当時きちんと報じられています。

2023年12月の末、千葉市内のトンネルで転落する事故がありました。

低い柵を踏み外したと伝えられています。

分からなかったのではなく、調べれば出てくる話でした

 

亡くなった方の死因が、あとから祟りの側へ数え直されていく。

その投稿は、85万回以上読まれました。

そして今回のように、待っている人が大勢いる。

この投稿は481万回見られています。

周りが繰り返し口にすることで、暗示は外から何度も塗り直されていきます。

 

だから昔の人は、必ず解く側の手を用意していました。

高いお金を払って高僧に読経してもらう。

寺や神社に寄進する。

討ち取った相手を、神として丁寧に祀る。

相手の霊を鎮めるためでもありますが、同時に、これだけやったのだからもう大丈夫だと自分に言い聞かせるための手続きでもありました。

罪を悔いて許しを願えば赦される、という宗教の仕組みも、この暗示を外すための出口になっていました。

無宗教だと言われる私たちも、土地に手を入れるときにはまず手を合わせます。

解く側の手続きは、いまも生きているわけです。

 

ここまで来ると、将門塚という場所の見え方が少し変わってきます。

この物語は、悪いことばかりをしてきたわけではありませんでした。

1100年近く語り継がれてきたおかげで、日本でいちばん地価の高い場所に、ビルの建たない一角が守られている。

畏れというのは、そこを大切に扱わせる力でもあります。

 

その距離の取り方について、うまいことを言っている人がいました。

500万回以上読まれた投稿です。

叩くのではなく、真顔で心配してあげる。

畏れを扱う作法としては、たしかにこちらのほうが行儀がいい気がします。

 

ただし、境目が一つだけあります。

祟りの代わりを人の手でやりはじめた瞬間に、それは畏れではなく攻撃に変わります

祟りが起きるのを待つのと、自分が祟りの役をやるのは、まったく別のことです。

今回の件については、すでに警察へ相談が上がっています。

そこから先は、私たちが手を出す場所ではありません。

 

将門公が本当に怒っているのかどうかは、たぶん誰にも証明できません。

ただ、怒っていようがいまいが、あの石碑によじ登ってよかったはずはない。

祟りを信じる人も信じない人も、そこだけは同じところに立てるのではないでしょうか。

さらにディープな話を知りたい方は、こちらの記事も読んでみてくださいね。

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