2026年8月、東京・大手町にある平将門の首塚は、配信者の騒動に大雨と地震が重なって「祟りではないか」と大きな話題になりました。

ただ、首塚の怖い話は、今回の件だけではないんです。

たとえば、こんな数字があります。

平将門が亡くなったのは940年。

首塚のそばに建っていた大蔵省の庁舎が落雷で焼けたのは、その1000年後の1940年です。

ちょうど1000年目。

偶然と呼ぶには、少し出来すぎた数字ですよね。

こうした話が、首塚には千年分たまっています。

今回は、将門の首塚にまつわる怖い話をひとつずつたどりながら、本当に祟りなのかというところまで、わかりやすくまとめていきたいと思います。

配信者に出た1000年BANという表示

まずは、騒動のその後の話からです。

2026年8月19日ごろ、首塚の石碑によじ登る様子を配信した人がいて、大きな批判を浴びました。

3日後の8月22日に関東で記録的な大雨、翌23日の午前2時ごろには茨城県南部を震源とする震度5弱の地震が起きて、ネットは祟りの話題で持ちきりになったわけです。

ここまでが、2026年8月の騒動のあらましです。

配信者の騒動から大雨と丑三つ時の地震まで、3日間に何が起きたのかは、こちらの記事で最初から追えます。

ライトアップされた平将門の首塚の石碑
将門の首塚の祟り|配信者の不敬から3日間に起きたことが怖すぎる…2026年8月19日ごろ、東京・大手町の平将門の首塚で、ある配信者が石碑によじ登りました。 抱きついて奇声。 その様子が生配信され、...

 

で、その配信者がどうなったかというと、まず本人が「配慮を欠いた行為だった」と謝罪しました。

神社の側は、被害届を出しています。

ここまでは、まあ想像の範囲です。

話が妙な方向へ転がるのは、ここからでして。

配信サービスのアカウント停止の画面に、停止期間の終わりとして「3025年8月22日まで」という日付が表示されていたんです。

3025年。

いまから1000年後です。

この画面が「1000年BAN」としてネットで一気に広まりました

運営がどこまで狙ったのかは分かりませんし、あくまで画面上の表示がそうなっていた、という話ではあります。

それでも、よりによって首塚の騒動で1000年という数字が出てきたことに、多くの人がざわっとしました。

罰のほうは、こうして人間の側がきっちり出しました。

では、祟りの側は本当にあるのか。

首塚には、千年分の言い伝えと出来事がたまっています。

夜な夜な叫んだと太平記に残る将門の首

そもそも、なぜ将門の首はここまで恐れられるのか。

出発点になる話が、軍記物の『太平記』に残っています。

 

討たれた将門の首は、京都の七条河原に晒されました。

これが、獄門——つまり晒し首の、日本史上最古の記録とされています。

恐ろしいのは、ここからです。

その首は、何か月たっても腐らなかったといいます。

目を見開いたまま、夜な夜な叫び続けたというんです。

「斬られた私の五体はどこにあるのか。ここに来い。首をつないでもう一戦しよう」

死んでなお、まだ戦うつもり。

千年語り継がれる怨霊の、これが第一声です。

 

この首の前で藤六左近(とうろくさこん)という歌人が歌を詠むと、首はからからと笑い、たちまち朽ち果てた——と『太平記』は伝えます。

一方で、別の言い伝えも残っています。

首が笑うと地面が轟き、稲妻が鳴り始めた。

そしてある夜、首は白光を放って、東の空へ飛び去った

だから「頸塚は京都にはない」というわけです。

ここで、気になる言葉がひとつ出てきました。

稲妻です。

2026年の騒ぎで祟りと結びつけられたのは、荒れた空がもたらした記録的な大雨と、深夜に轟いた地面でした。

空が荒れて、地面が轟く。

その組み合わせは、千年前の言い伝えのほうが先に書いていました

東へ飛ぶ首を岐阜で射落とした御首神社

では、京都を飛び立った首はどうなったのか。

実は、その行方をめぐる伝承は、ひとつではありません。

 

岐阜県大垣市に、御首神社(みくびじんじゃ)という神社があります。

ここに伝わる話は、こうです。

首が関東へ帰れば、また乱が起こる。

それを恐れた美濃の南宮大社が祈願すると、隼人神(はやとのかみ)が弓に矢をつがえ、東へ飛ぶ将門の首を射落としました。

首が落ちた地に、二度と関東へ戻らないようにと祀ったのが、御首神社だと伝えられています。

 

すごいのは、この話が地名でいまも残っていることです。

神矢が飛んだ道筋とされる場所は、いまも大垣市の「矢道町(やみちちょう)」

矢の道、です。

ちなみに御首神社は、首から上の病気にご利益がある神社として、いまも参拝されています。

 

ただ、ここで話が食い違います。

岐阜で射落とされたなら、首は関東に帰り着いていないはずです。

ところが東京の首塚は、「帰り着いた首」が落ちた場所として祀られています。

岐阜の伝承と東京の伝承、どちらも本物として、いまも両方の地で手を合わせられています

首はどこまで飛んだのか。

千年たっても、答え合わせのしようがありません。

没後ちょうど1000年目に大蔵省庁舎が焼けた

冒頭の1000年の話を、もう少し近くで見てみましょう。

首塚のある土地には、かつて大蔵省の仮庁舎が建てられていました。

その大蔵省の庁舎が焼けたのが、1940年(昭和15年)の6月です。

原因は落雷でした。

 

平将門が亡くなったのが940年ですから、数えてみると、没後ちょうど1000年目に当たります。

しかも火事の火元は、空から落ちてきた雷です。

千年目の節目に、よりによって天から火が降ってきた。

そう聞くと、背中のあたりがすうっとしますよね。

稲妻とともに笑ったという、『太平記』のあの首の話を思い出す人もいるはずです。

940年と1940年。

カレンダーの上では、これ以上ないくらいきれいに揃った偶然です。

国税庁の公式サイトが首塚の祟りを解説している

じつは、この大蔵省の話には続きがあります。

首塚の祟りは、いまも役所の公式サイトで解説されているんです。

国税庁のサイトにある、「大手町の首塚」というページです。

 

置き場所は、税務大学校の「税の歴史クイズ」というコーナーです。

出題は、こんな内容です。

大蔵省の敷地にあった塚が、庁舎の工事で取り壊された。

すると大蔵大臣や工事部長が、相次いで亡くなった——。

さて、この塚に祀られている人物は誰でしょう。

答えは、もちろん平将門です。

 

税金の話をするサイトに、なぜ祟りのクイズがあるのか。

理由は、役所の系図をたどるとすぐに分かります。

国税庁ができたのは1949年(昭和24年)で、それより前に税金を集めていたのは大蔵省でした。

祟られたと噂された役所の、後を継いだのが国税庁なんです。

よその怪談ではなく、自分の家に起きたこととして書いている。

そう思って読むと、あの淡々とした文章の温度が変わって見えます。

ページには、年表もきちんと残されています。

大蔵省がこの土地に庁舎を構えたのは、1871年(明治4年)の廃藩置県のあとです。

その敷地には、以前から首塚がありました。

1923年(大正12年)、関東大震災で庁舎が焼失。

翌1924年(大正13年)、跡地に仮庁舎を建てるときに、首塚が壊されます。

そして1926年(大正15年)、大蔵大臣の早速整爾(はやみせいじ)が急死。

翌1927年(昭和2年)には、工事部長だった矢橋賢吉(やばしけんきち)も亡くなりました。

役所が鎮魂碑を建てたのは、その1927年です。

 

年表は、ここで終わりません。

1940年(昭和15年)6月の、大手町の官庁街の火災。

さきほどの、没後1000年目の落雷です。

そして太平洋戦争のあと、米軍が塚を整地しようとしたときのことも書かれています。

ブルドーザーが横転し、運転していた人が亡くなった——と。

役所の公式サイトが、ここまで書いているんです。

 

もちろん、書きぶりは慎重です。

祟りそのものについては「事実か否かは確かめようもありません」と、はっきり線を引いています。

ただ、確かめようもないと書いたページを、消さずに置いてある。

 

ぞくりとするのは、最後に添えられた一文です。

首塚は東京国税局の近くの、ビルの谷間に今も存在しています——。

千年前に切られた首が、いまも国税局のすぐそばにある。

その距離を、役所自身が書き残しているわけです。

罰が当たったと語った首塚の賽銭泥棒

祟りの話は、千年前だけのものではありません。

2023年、首塚の賽銭箱からお金を盗んだ75歳の男が逮捕されました。

場所を選ばなかったのか、選んでしまったのか。

よりによって、日本でいちばん祟りで有名な塚の賽銭です。

 

このニュースで語り草になったのは、逮捕そのものよりも、本人の言葉のほうでした。

当時の報道によると、男は「罰が当たったんだと思う」と語ったそうです。

捕まえたのは警察です。

それでも本人の頭の中では、捕まえたのは将門公だったらしいんですね。

祟りを信じますかというアンケートがあったら、この人は迷わず「信じる」に丸をつけるはずです。

誰より祟りを信じていたのは、賽銭を盗んだ本人のほう。

そんな塚は、ほかにちょっと思いつきません。

祟りの首塚に蛙の置物が並んでいた理由

かつての首塚には、不思議な光景がありました。

石碑のまわりに、蛙の置物がずらりと並んでいたそうです。

祟りで恐れられる場所に、なぜ蛙なのか。

 

鍵は、あの飛ぶ首の伝承です。

京都を飛び立った首が、故郷へ帰り着いた場所——それが首塚です。

飛んで、帰ってきた。

この「帰る」に「カエル」をかけた語呂合わせで、蛙が縁起物になったわけです。

 

語呂合わせと聞くと軽く感じますが、託されてきた願いのほうは真剣そのものでした。

左遷された会社員が、元の会社に帰れますように。

行方不明になった子が、無事に帰ってきますように。

そういう祈りとともに、蛙は一体また一体と増えていきました。

とくに1986年、三井物産のマニラ支店長が誘拐された若王子事件のあと、無事の帰りを願う蛙の奉納は広く知られるようになったそうです。

 

なお、2021年の第6次改修のあとは供物を置くこと自体が禁止になっていて、いま蛙を直接置くことはできません。

奉納は、神田神社の社務所が受け付ける形になっています。

首が飛んだという一番怖い伝承が、そのまま「帰れる」という一番やさしい祈りに化けている場所なんです。

震源が将門の故郷と重なった偶然にゾッとする

さて、2026年8月23日の地震に話を戻します。

震源は「茨城県南部」と発表されました。

ここに反応した人が大勢いました。

というのも、将門が最期を迎えたのは、いまの茨城県坂東市の岩井付近だと伝えられているからです。

つまり震源は、将門の故郷とほぼ同じエリアに当たります。

ネットでは「故郷が呼応した」という受け止めが一気に広まりました。

この投稿に出てくる「滝夜叉姫(たきやしゃひめ)」は、初めて聞く名前かもしれません。

将門の娘だと伝えられている人です。

本当の名は、五月姫(さつきひめ)といいます。

 

父を討たれたあと、五月姫は恨みを抱えて貴船明神へ通いました。

通ったのは、毎晩の丑三つ時です。

いまの時計でいえば、午前2時から2時半ごろ

丑の刻参りという言葉の、あの時間ですね。

そして21日目の満願の夜、荒御霊の声を聞いて妖術を授かり、滝夜叉姫になった——というのが伝説です。

 

ここまで書くと、あの投稿が何を面白がっているのかが見えてきます。

今回の地震が起きたのは、2026年8月23日の午前2時ごろ。

まさに、丑三つ時です。

しかも滝夜叉姫の墓と伝わる塚は、茨城県つくば市の松塚にあります。

東福寺というお寺から200メートルほど離れた、畑の中の小さな塚です。

つくば市も、震源として発表された「茨城県南部」に入ります。

 

父の故郷が震源、というだけではありません。

娘の墓のそばで、娘が通ったのと同じ時間に揺れたことになります。

だから「将門公は寛大に許しても、娘さんや周りが怒っているのでは」という説が出てくるわけです。

 

ただ、ここは正直に添えておきます。

滝夜叉姫は、史実の人ではありません。

山東京伝が1806年(文化3年)に出した読み本『善知安方忠義伝(うとうやすかたちゅうぎでん)』で語ったのが最初とされる、江戸時代に作られた人物です。

あとで出てくる「将門結界」と同じで、後の世が足した物語のほうですね。

 

それでも、江戸の作者が決めた「丑三つ時」という設定が、千年後の地震の時刻とぴたりと重なってしまった。

作り話だと分かったあとのほうが、かえって薄気味悪いかもしれません。

首と胴が千年後も同じ名前の土地にある

娘の墓が茨城なら、父の胴が眠るのも茨城です。

坂東市には、首塚と対になる場所があります。

胴塚です。

京都へ運ばれた首と分かれて、胴を葬ったと伝わる塚で、坂東市の延命院というお寺にあります。

 

今回の地震のあと、発表された震源の座標をそのまま地図に入れた人もいました。

北緯36.0度、東経140.1度。

その座標の周りに、何があったか。

地図が指した先にあったのが、この延命院でした。

そして、延命院のある場所の名前を、神田山(かどやま)といいます。

神田山。

見覚えのある字面です。

そう、首塚のある東京の地名「神田」と同じ字です。

しかも神田という地名は、将門の「体(からだ)」が訛ったものだという説まであります。

首の街が神田で、胴の山が神田山

千年前に切り離された首と胴が、いまも地名の上では同じ名前のまま。

 

念のため添えておくと、胴塚の伝承は各地に複数あって、坂東の胴塚は新しい説だという見方もあります。

どこまでが史実かは、はっきりしていません。

それでも、地図を開けば、神田と神田山はいまも実在します。

 

そして、この名前の話には、まだ先があります。

京都市下京区に、民家に埋もれるようにして小さな祠が残っています。

その名も、神田明神。

由緒書きには「天慶年間平将門ノ首ヲ晒シタ所也」とあります。

首が晒された旅の始まりの地も、神田なんです

晒された京都の神田明神、帰り着いた東京の神田、胴が眠る茨城の神田山。

首の旅の始点と終点、そして胴の地。

三つの場所が、同じ名前でいまもつながっています。

江戸を守る将門結界という都市伝説の出どころ

将門ゆかりの場所を地図に落としていくと、もうひとつ有名な話にぶつかります。

「将門結界」です。

首塚・神田明神・築土神社・鳥越神社・兜神社といった将門ゆかりの神社の配置が、江戸の街を守る結界になっている——という説ですね。

オカルト好きの間では定番中の定番です。

ただ、この説には出どころがあります。

加門七海の『平将門魔方陣』という本や、荒俣宏の小説『帝都物語』を通じて広まった、現代になってから組み上がった都市伝説です。

『帝都物語』が世に出たのは昭和の終わりで、以降、将門は「東京の守護神」として多くのオカルトファンに親しまれる存在になりました。

江戸時代の人がそう設計したという記録が残っているわけではありません。

事実というより、読み物として楽しまれてきた説、というのが正確なところです。

 

それでも、これだけの物語を背負わされる人物は、日本史でもほんのひと握りです。

日本三大怨霊といえば、菅原道真、崇徳天皇、そして平将門。

学問の神様になった道真と並んで、将門は東京のど真ん中に千年残り続けています

ビル街の一等地に塚が残っていること自体が、結界の話より、よほど雄弁かもしれません。

祟りにしては関東全域は広すぎるという声

ここまで読んで、だいぶ首筋が冷えてきたと思います。

ただ、ネットには冷静な声もちゃんとあります。

たとえば、こんな指摘です。

「祟りの範囲、広すぎない?」

過去の祟りの話は、庁舎や関係者というピンポイントに絞られていました。

ところが今回は、大雨も地震も関東全域です。

不敬をはたらいたのは配信者ひとりなのに、罰が関東ぜんぶに降ってくるのは、さすがに巻き添えがすぎる——そう言われると、たしかにそうなんですよね。

気象の側の説明も、はっきりしています。

8月22日の記録的な大雨は、前線と湿った空気によるもので、数日前から警戒が呼びかけられていました

地震のあとの「1週間程度は注意」も、大きな地震のたびに出される通常の呼びかけです。

 

過去の祟りも、年表を近くで見ると印象が変わります。

祟りの犠牲者として名前の挙がる大蔵大臣・早速整爾が亡くなったのは、仮庁舎の建設から2年後の1926年で、建設そのものには関わっていません。

工事部長だった矢橋賢吉も、亡くなったのは建設の3年後の1927年です。

1000年目の落雷にも続きがあって、1940年6月のその日、落雷は東京府内の20ヶ所に及んでいました。

大蔵省の庁舎も雷の直撃ではなく、隣の航空局に落ちた雷の火が燃え移った延焼だったそうです。

さきほどの国税庁のページも、祟りそのものについては「事実か否かは確かめようもありません」と線を引いていました。

近づいて見るほど、祟りの輪郭はゆるんでいく。

ここまでは、正直に認めてしまったほうがよさそうです。

 

それでも、です。

天気の知識が説明してくれるのは、大雨と地震がなぜ起きたか、まででした。

没後ちょうど1000年目という年に、東京で20ヶ所も雷が落ちる日が来たこと。

荒れた空と轟く地面の組み合わせが、千年前の言い伝えに先に書かれていたこと。

首の旅の三つの土地に、同じ名前が残り続けていること。

偶然と言えば、ぜんぶ偶然です。

ただ、これだけ偶然が積み上がる場所は、日本中を探してもそうはありません

笑い飛ばしたあとに、少しだけ残る引っかかり。

騒ぎのたびに、そんな声が行き交うことになります。

720年間も供養が続く首塚のほんとうの正体

では、祟りはただの思い込みで、この話はおしまいなのか。

最後に、ひとつだけ不思議が残ります。

年表のゆるさを誰より知っていたはずの当事者たちが、誰ひとり「じゃあ気にしない」を選ばなかったことです。

 

大蔵省は、鎮魂祭を開いたうえで、仮庁舎を取り壊しました。

戦後に首塚の一帯を整地しかけた工事も、結局は取りやめになっています。

ネットには「もし何の祟りもなかったら、首塚は撤去されるのか」という問いもありました。

実際に起きてきたことは、その逆です。

1307年、他阿真教(たあしんきょう)というお坊さんが、首塚に供養の板碑を建てました。

いまから720年ほど前の話です。

以来、この塚は途切れることなく供養され続けてきました。

いまも首塚には毎日のように線香が上がり、近隣の企業がつくる「史蹟将門塚保存会」が手入れを続けています。

 

祟りが本当かどうかは、たしかに確かめようがありません。

でも、720年分の線香は本当にそこで焚かれてきたし、蛙に託された祈りも、鎮魂祭を開いた役人たちの怖さも、ぜんぶ実際にあったことです。

首塚のほんとうの正体は、祟る塚というより、千年かけて人の畏れと祈りが積もり続けている場所なのだと思います。

今回の騒ぎも、いつかは祟り話の年表に、1行として加わっていくはずです。

ただ、その年表の隣では、明日も誰かが線香を上げて、手を合わせています。

今度大手町を通りかかったら、線香の絶えないその一角だけ、少し違って見えそうですね。

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