平将門公の祟りまとめ|首塚にまつわる怖い話を全部調べてみた

2026年8月、東京・大手町にある平将門の首塚は、配信者の騒動に大雨と地震が重なって「祟りではないか」と大きな話題になりました。
ただ、首塚の怖い話は、今回の件だけではないんです。
たとえば、こんな数字があります。
平将門が亡くなったのは940年。
首塚のそばに建っていた大蔵省の庁舎が落雷で焼けたのは、その1000年後の1940年です。
ちょうど1000年目。
偶然と呼ぶには、少し出来すぎた数字ですよね。
こうした話が、首塚には千年分たまっています。
今回は、将門の首塚にまつわる怖い話をひとつずつたどりながら、本当に祟りなのかというところまで、わかりやすくまとめていきたいと思います。
配信者に出た1000年BANという表示
まずは、騒動のその後の話からです。
2026年8月19日ごろ、首塚の石碑によじ登る様子を配信した人がいて、大きな批判を浴びました。
3日後の8月22日に関東で記録的な大雨、翌23日の午前2時ごろには茨城県南部を震源とする震度5弱の地震が起きて、ネットは祟りの話題で持ちきりになったわけです。
ここまでが、2026年8月の騒動のあらましです。
配信者の騒動から大雨と丑三つ時の地震まで、3日間に何が起きたのかは、こちらの記事で最初から追えます。
で、その配信者がどうなったかというと、まず本人が「配慮を欠いた行為だった」と謝罪しました。
神社の側は、被害届を出しています。
ここまでは、まあ想像の範囲です。
話が妙な方向へ転がるのは、ここからでして。
配信サービスのアカウント停止の画面に、停止期間の終わりとして「3025年8月22日まで」という日付が表示されていたんです。
3025年。
いまから1000年後です。
この画面が「1000年BAN」としてネットで一気に広まりました。
平将門の首塚で粗相をし、今回の大雨や地震はその祟りでは?と噂されているキッカーズ2軍の愛之助さんのアカウントを見にいったら、配信元から「西暦3025年8月22日までBAN」とかいう実質死亡宣告を受けていて笑った。 pic.twitter.com/CrQZIPMaKD
— まことぴ (@makotopic) 2026年8月23日
運営がどこまで狙ったのかは分かりませんし、あくまで画面上の表示がそうなっていた、という話ではあります。
それでも、よりによって首塚の騒動で1000年という数字が出てきたことに、多くの人がざわっとしました。
将門公に無礼を行った配信者末代までBANされたの好き(3025年までBAN)
— しっきー (@sickybull) 2026年8月23日
罰のほうは、こうして人間の側がきっちり出しました。
では、祟りの側は本当にあるのか。
首塚には、千年分の言い伝えと出来事がたまっています。
夜な夜な叫んだと太平記に残る将門の首
そもそも、なぜ将門の首はここまで恐れられるのか。
出発点になる話が、軍記物の『太平記』に残っています。
討たれた将門の首は、京都の七条河原に晒されました。
これが、獄門——つまり晒し首の、日本史上最古の記録とされています。
恐ろしいのは、ここからです。
その首は、何か月たっても腐らなかったといいます。
目を見開いたまま、夜な夜な叫び続けたというんです。
「斬られた私の五体はどこにあるのか。ここに来い。首をつないでもう一戦しよう」
死んでなお、まだ戦うつもり。
千年語り継がれる怨霊の、これが第一声です。
この首の前で藤六左近(とうろくさこん)という歌人が歌を詠むと、首はからからと笑い、たちまち朽ち果てた——と『太平記』は伝えます。
一方で、別の言い伝えも残っています。
首が笑うと地面が轟き、稲妻が鳴り始めた。
そしてある夜、首は白光を放って、東の空へ飛び去った。
だから「頸塚は京都にはない」というわけです。
将門の首は京都・七条河原で晒されたのですが、その首は腐らず目を見開いたまま歯ぎしりして我が身はいずこじゃ、今一度戦わん!と叫び続けた。
ある夜、白光を放って東国へ飛び去り、現在の大手町付近に落ちた。それが、「将門の首塚」— 華鳥風月@NEXT8月23日中×ヤ (@KachoFugetsu11) 2026年8月23日
ここで、気になる言葉がひとつ出てきました。
稲妻です。
2026年の騒ぎで祟りと結びつけられたのは、荒れた空がもたらした記録的な大雨と、深夜に轟いた地面でした。
空が荒れて、地面が轟く。
その組み合わせは、千年前の言い伝えのほうが先に書いていました。
東へ飛ぶ首を岐阜で射落とした御首神社
では、京都を飛び立った首はどうなったのか。
実は、その行方をめぐる伝承は、ひとつではありません。
岐阜県大垣市に、御首神社(みくびじんじゃ)という神社があります。
ここに伝わる話は、こうです。
首が関東へ帰れば、また乱が起こる。
それを恐れた美濃の南宮大社が祈願すると、隼人神(はやとのかみ)が弓に矢をつがえ、東へ飛ぶ将門の首を射落としました。
首が落ちた地に、二度と関東へ戻らないようにと祀ったのが、御首神社だと伝えられています。
すごいのは、この話が地名でいまも残っていることです。
神矢が飛んだ道筋とされる場所は、いまも大垣市の「矢道町(やみちちょう)」。
矢の道、です。
ちなみに御首神社は、首から上の病気にご利益がある神社として、いまも参拝されています。
ただ、ここで話が食い違います。
岐阜で射落とされたなら、首は関東に帰り着いていないはずです。
ところが東京の首塚は、「帰り着いた首」が落ちた場所として祀られています。
岐阜の伝承と東京の伝承、どちらも本物として、いまも両方の地で手を合わせられています。
将門塚が悪い意味で話題だが、自分は岐阜県西濃の人間なので、将門の首があるのは大垣荒尾の御首神社と信じている
— よるべなき旅人 (@yorubenaki_ta) 2026年8月23日
首はどこまで飛んだのか。
千年たっても、答え合わせのしようがありません。
没後ちょうど1000年目に大蔵省庁舎が焼けた
冒頭の1000年の話を、もう少し近くで見てみましょう。
首塚のある土地には、かつて大蔵省の仮庁舎が建てられていました。
その大蔵省の庁舎が焼けたのが、1940年(昭和15年)の6月です。
原因は落雷でした。
平将門が亡くなったのが940年ですから、数えてみると、没後ちょうど1000年目に当たります。
しかも火事の火元は、空から落ちてきた雷です。
千年目の節目に、よりによって天から火が降ってきた。
そう聞くと、背中のあたりがすうっとしますよね。
稲妻とともに笑ったという、『太平記』のあの首の話を思い出す人もいるはずです。
1940年6月20日、都内20カ所で落雷。大手町の逓信省付近が大火災となった。将門の死は940年。ときあたかも没後千周年であったことから、庁舎は移転。将門の霊を鎮めるため一千年祭を執り行い、河田烈大蔵大臣の揮毫による古跡保存碑が建立され今に至る。 pic.twitter.com/mfYyXyC6dI
— テオ・テオ・平沼銑次👉👉ゲッツ! (@shishinosenzi) 2026年8月23日
940年と1940年。
カレンダーの上では、これ以上ないくらいきれいに揃った偶然です。
国税庁の公式サイトが首塚の祟りを解説している
じつは、この大蔵省の話には続きがあります。
首塚の祟りは、いまも役所の公式サイトで解説されているんです。
国税庁のサイトにある、「大手町の首塚」というページです。
置き場所は、税務大学校の「税の歴史クイズ」というコーナーです。
出題は、こんな内容です。
大蔵省の敷地にあった塚が、庁舎の工事で取り壊された。
すると大蔵大臣や工事部長が、相次いで亡くなった——。
さて、この塚に祀られている人物は誰でしょう。
答えは、もちろん平将門です。
税金の話をするサイトに、なぜ祟りのクイズがあるのか。
理由は、役所の系図をたどるとすぐに分かります。
国税庁ができたのは1949年(昭和24年)で、それより前に税金を集めていたのは大蔵省でした。
祟られたと噂された役所の、後を継いだのが国税庁なんです。
よその怪談ではなく、自分の家に起きたこととして書いている。
そう思って読むと、あの淡々とした文章の温度が変わって見えます。
書き物のために将門の呪いについて調べていてこのページに行き当たったんだけど、省庁のページで呪いについて真面目に書いてあるのとても面白い
大手町の首塚|国税庁https://t.co/lOA2p7DNpL
— りんね (@4everST6) 2026年3月3日
ページには、年表もきちんと残されています。
大蔵省がこの土地に庁舎を構えたのは、1871年(明治4年)の廃藩置県のあとです。
その敷地には、以前から首塚がありました。
1923年(大正12年)、関東大震災で庁舎が焼失。
翌1924年(大正13年)、跡地に仮庁舎を建てるときに、首塚が壊されます。
そして1926年(大正15年)、大蔵大臣の早速整爾(はやみせいじ)が急死。
翌1927年(昭和2年)には、工事部長だった矢橋賢吉(やばしけんきち)も亡くなりました。
役所が鎮魂碑を建てたのは、その1927年です。
年表は、ここで終わりません。
1940年(昭和15年)6月の、大手町の官庁街の火災。
さきほどの、没後1000年目の落雷です。
そして太平洋戦争のあと、米軍が塚を整地しようとしたときのことも書かれています。
ブルドーザーが横転し、運転していた人が亡くなった——と。
役所の公式サイトが、ここまで書いているんです。
もちろん、書きぶりは慎重です。
祟りそのものについては「事実か否かは確かめようもありません」と、はっきり線を引いています。
ただ、確かめようもないと書いたページを、消さずに置いてある。
ぞくりとするのは、最後に添えられた一文です。
首塚は東京国税局の近くの、ビルの谷間に今も存在しています——。
千年前に切られた首が、いまも国税局のすぐそばにある。
その距離を、役所自身が書き残しているわけです。
罰が当たったと語った首塚の賽銭泥棒
祟りの話は、千年前だけのものではありません。
2023年、首塚の賽銭箱からお金を盗んだ75歳の男が逮捕されました。
場所を選ばなかったのか、選んでしまったのか。
よりによって、日本でいちばん祟りで有名な塚の賽銭です。
このニュースで語り草になったのは、逮捕そのものよりも、本人の言葉のほうでした。
当時の報道によると、男は「罰が当たったんだと思う」と語ったそうです。
捕まえたのは警察です。
それでも本人の頭の中では、捕まえたのは将門公だったらしいんですね。
将門塚の賽銭箱から金盗んだ人、今お元気なんすかね💦
— 苗ペンギン (@yasaipenguin) 2026年8月23日
祟りを信じますかというアンケートがあったら、この人は迷わず「信じる」に丸をつけるはずです。
誰より祟りを信じていたのは、賽銭を盗んだ本人のほう。
そんな塚は、ほかにちょっと思いつきません。
祟りの首塚に蛙の置物が並んでいた理由
かつての首塚には、不思議な光景がありました。
石碑のまわりに、蛙の置物がずらりと並んでいたそうです。
祟りで恐れられる場所に、なぜ蛙なのか。
鍵は、あの飛ぶ首の伝承です。
京都を飛び立った首が、故郷へ帰り着いた場所——それが首塚です。
飛んで、帰ってきた。
この「帰る」に「カエル」をかけた語呂合わせで、蛙が縁起物になったわけです。
語呂合わせと聞くと軽く感じますが、託されてきた願いのほうは真剣そのものでした。
左遷された会社員が、元の会社に帰れますように。
行方不明になった子が、無事に帰ってきますように。
そういう祈りとともに、蛙は一体また一体と増えていきました。
とくに1986年、三井物産のマニラ支店長が誘拐された若王子事件のあと、無事の帰りを願う蛙の奉納は広く知られるようになったそうです。
なお、2021年の第6次改修のあとは供物を置くこと自体が禁止になっていて、いま蛙を直接置くことはできません。
奉納は、神田神社の社務所が受け付ける形になっています。
将門の首塚は今、カエルの像はないの?あれこそが、地元の人からの信仰の厚さを感じて良かったのに。
あと、改装前の首塚でクロアゲハを見たのを覚えてる。アゲハは平氏の紋だけど、将門の敵の平貞盛から始まったという説もあるのだが。 https://t.co/VXFpKC9pwa— 大泉金魚 (@moonnosekai) 2026年8月23日
首が飛んだという一番怖い伝承が、そのまま「帰れる」という一番やさしい祈りに化けている場所なんです。
震源が将門の故郷と重なった偶然にゾッとする
さて、2026年8月23日の地震に話を戻します。
震源は「茨城県南部」と発表されました。
ここに反応した人が大勢いました。
というのも、将門が最期を迎えたのは、いまの茨城県坂東市の岩井付近だと伝えられているからです。
つまり震源は、将門の故郷とほぼ同じエリアに当たります。
ネットでは「故郷が呼応した」という受け止めが一気に広まりました。
平将門公の祟りで地震が…というトレンドを見て、位置的には滝夜叉姫のお墓の近くが震源で丑の刻参りの時間なので、将門公は寛大に許しても娘さんや周りが怒っている説の方が…と、漫画的な設定が浮かびましたが、あまりそういう不遜な憶測はせず、普通に地震対策をして、余震に気をつけていきましょう…
— 家守純生🐱「灰かぶりおじさんと猫王子」連載中 (@SumioYamori) 2026年8月23日
この投稿に出てくる「滝夜叉姫(たきやしゃひめ)」は、初めて聞く名前かもしれません。
将門の娘だと伝えられている人です。
本当の名は、五月姫(さつきひめ)といいます。
父を討たれたあと、五月姫は恨みを抱えて貴船明神へ通いました。
通ったのは、毎晩の丑三つ時です。
いまの時計でいえば、午前2時から2時半ごろ。
丑の刻参りという言葉の、あの時間ですね。
そして21日目の満願の夜、荒御霊の声を聞いて妖術を授かり、滝夜叉姫になった——というのが伝説です。
ここまで書くと、あの投稿が何を面白がっているのかが見えてきます。
今回の地震が起きたのは、2026年8月23日の午前2時ごろ。
まさに、丑三つ時です。
しかも滝夜叉姫の墓と伝わる塚は、茨城県つくば市の松塚にあります。
東福寺というお寺から200メートルほど離れた、畑の中の小さな塚です。
つくば市も、震源として発表された「茨城県南部」に入ります。
父の故郷が震源、というだけではありません。
娘の墓のそばで、娘が通ったのと同じ時間に揺れたことになります。
だから「将門公は寛大に許しても、娘さんや周りが怒っているのでは」という説が出てくるわけです。
ただ、ここは正直に添えておきます。
滝夜叉姫は、史実の人ではありません。
山東京伝が1806年(文化3年)に出した読み本『善知安方忠義伝(うとうやすかたちゅうぎでん)』で語ったのが最初とされる、江戸時代に作られた人物です。
あとで出てくる「将門結界」と同じで、後の世が足した物語のほうですね。
それでも、江戸の作者が決めた「丑三つ時」という設定が、千年後の地震の時刻とぴたりと重なってしまった。
作り話だと分かったあとのほうが、かえって薄気味悪いかもしれません。
首と胴が千年後も同じ名前の土地にある
娘の墓が茨城なら、父の胴が眠るのも茨城です。
坂東市には、首塚と対になる場所があります。
胴塚です。
京都へ運ばれた首と分かれて、胴を葬ったと伝わる塚で、坂東市の延命院というお寺にあります。
今回の地震のあと、発表された震源の座標をそのまま地図に入れた人もいました。
北緯36.0度、東経140.1度。
その座標の周りに、何があったか。
昨晩の地震
「丑三つ時だし、将門公の祟りでは?」
なんてポストを見た。ふと思い立って昨晩の地震の震源調べてみた。震源は
『北緯 36.0度、東経 140.1度』
とのこと。
その位置をgoogle mapに入れて検索かけたら…1枚目が震源である北緯 36.0度、東経 140.1度の場所
2枚目が「神田山 延命院… pic.twitter.com/yPeIsd2OpQ— 白山之乃@「うんちく商事」作品🍈委託中 (@t_unchiku) 2026年8月23日
地図が指した先にあったのが、この延命院でした。
そして、延命院のある場所の名前を、神田山(かどやま)といいます。
神田山。
見覚えのある字面です。
そう、首塚のある東京の地名「神田」と同じ字です。
しかも神田という地名は、将門の「体(からだ)」が訛ったものだという説まであります。
首の街が神田で、胴の山が神田山。
千年前に切り離された首と胴が、いまも地名の上では同じ名前のまま。
念のため添えておくと、胴塚の伝承は各地に複数あって、坂東の胴塚は新しい説だという見方もあります。
どこまでが史実かは、はっきりしていません。
それでも、地図を開けば、神田と神田山はいまも実在します。
そして、この名前の話には、まだ先があります。
京都市下京区に、民家に埋もれるようにして小さな祠が残っています。
その名も、神田明神。
由緒書きには「天慶年間平将門ノ首ヲ晒シタ所也」とあります。
首が晒された旅の始まりの地も、神田なんです。
晒された京都の神田明神、帰り着いた東京の神田、胴が眠る茨城の神田山。
首の旅の始点と終点、そして胴の地。
三つの場所が、同じ名前でいまもつながっています。
江戸を守る将門結界という都市伝説の出どころ
将門ゆかりの場所を地図に落としていくと、もうひとつ有名な話にぶつかります。
「将門結界」です。
首塚・神田明神・築土神社・鳥越神社・兜神社といった将門ゆかりの神社の配置が、江戸の街を守る結界になっている——という説ですね。
オカルト好きの間では定番中の定番です。
都市伝説系で好きなの
山手線やら環状線やら16号(東京環状)やら圏央道やらは将門の首が飛ばないように丸くしてる説 https://t.co/JSX7l92TuU— たけす (@anothertakes) 2026年8月23日
ただ、この説には出どころがあります。
加門七海の『平将門魔方陣』という本や、荒俣宏の小説『帝都物語』を通じて広まった、現代になってから組み上がった都市伝説です。
『帝都物語』が世に出たのは昭和の終わりで、以降、将門は「東京の守護神」として多くのオカルトファンに親しまれる存在になりました。
江戸時代の人がそう設計したという記録が残っているわけではありません。
事実というより、読み物として楽しまれてきた説、というのが正確なところです。
それでも、これだけの物語を背負わされる人物は、日本史でもほんのひと握りです。
日本三大怨霊といえば、菅原道真、崇徳天皇、そして平将門。
学問の神様になった道真と並んで、将門は東京のど真ん中に千年残り続けています。
祟りかどうかはさておき平将門公1人だけというのも忍びない。
雷神菅原道真公と崇徳天皇も…
と思ったら崇徳天皇って香川で亡くなったのね。
来年香川県って外国人受け入れ増やすみたいなの見たけど神社と寺に無礼働いて香川祟られたりしないよね?— ハーシェル (@herusing1215) 2026年8月23日
ビル街の一等地に塚が残っていること自体が、結界の話より、よほど雄弁かもしれません。
祟りにしては関東全域は広すぎるという声
ここまで読んで、だいぶ首筋が冷えてきたと思います。
ただ、ネットには冷静な声もちゃんとあります。
たとえば、こんな指摘です。
「祟りの範囲、広すぎない?」
平将門公の祟りって本人やその関係者だけじゃないの?
大蔵省やGHQの時はピンポイントな感じに見えるけど、今回は関東全域…— 咲太桜島 (@sakurajimam1203) 2026年8月23日
過去の祟りの話は、庁舎や関係者というピンポイントに絞られていました。
ところが今回は、大雨も地震も関東全域です。
不敬をはたらいたのは配信者ひとりなのに、罰が関東ぜんぶに降ってくるのは、さすがに巻き添えがすぎる——そう言われると、たしかにそうなんですよね。
今回の地震やゲリラ豪雨が平将門の祟りだと賑わってる人達。
盛り上がりたい気持ちは分かるけど、さすがにこじつけすぎ。
その配信者は何かバチが当たったのか?
もう一度誰かが同じ事したらまたゲリラ豪雨と地震が来るのか?
確実に祟りだと思えた時に騒いでくれ— フロウ (@shinobunHOLO) 2026年8月23日
気象の側の説明も、はっきりしています。
8月22日の記録的な大雨は、前線と湿った空気によるもので、数日前から警戒が呼びかけられていました。
地震のあとの「1週間程度は注意」も、大きな地震のたびに出される通常の呼びかけです。
過去の祟りも、年表を近くで見ると印象が変わります。
祟りの犠牲者として名前の挙がる大蔵大臣・早速整爾が亡くなったのは、仮庁舎の建設から2年後の1926年で、建設そのものには関わっていません。
工事部長だった矢橋賢吉も、亡くなったのは建設の3年後の1927年です。
1000年目の落雷にも続きがあって、1940年6月のその日、落雷は東京府内の20ヶ所に及んでいました。
大蔵省の庁舎も雷の直撃ではなく、隣の航空局に落ちた雷の火が燃え移った延焼だったそうです。
さきほどの国税庁のページも、祟りそのものについては「事実か否かは確かめようもありません」と線を引いていました。
関東の地震を平将門の祟りと言い出すの、人ってのは納得し難いことがあると何かしらの理由を見出したがる好例かもな。まだ祟りだ何だと言ってるのは可愛い部類で、それが悪くすると人工地震説からの陰謀論に傾倒したりする
— KlausAureolanus (@KlausAureolanus) 2026年8月23日
近づいて見るほど、祟りの輪郭はゆるんでいく。
ここまでは、正直に認めてしまったほうがよさそうです。
それでも、です。
天気の知識が説明してくれるのは、大雨と地震がなぜ起きたか、まででした。
没後ちょうど1000年目という年に、東京で20ヶ所も雷が落ちる日が来たこと。
荒れた空と轟く地面の組み合わせが、千年前の言い伝えに先に書かれていたこと。
首の旅の三つの土地に、同じ名前が残り続けていること。
偶然と言えば、ぜんぶ偶然です。
ただ、これだけ偶然が積み上がる場所は、日本中を探してもそうはありません。
今日の丑三つ時に起きた地震と東京の記録的大雨はワンチャン平将門公の祟りの可能性あってやばい。今回震度5の地震だって、平安時代の建物レベルなら十分倒壊するだろうし。この時代にないと否定し切れないのがな……
— 雀 (@sparrow12_31) 2026年8月23日
笑い飛ばしたあとに、少しだけ残る引っかかり。
騒ぎのたびに、そんな声が行き交うことになります。
震災で崩れた首塚から出てきた石室
この塚が将門のお墓なのかどうか、じつははっきりしていません。
もっと根本的な指摘が、ずっと前からあります。
手がかりが出たのは、1923年(大正12年)の関東大震災です。
揺れで塚の盛り土が崩れて、中が見えるようになりました。
専門家が調べると、内部から長方形の石室が現れます。
入っていたのは、江戸時代ごろの陶器のかけらなど。
将門が生きた10世紀のものは、ひとつも出てきませんでした。
調べた人たちが出した見立ては、5世紀ごろに作られた小さな古墳というものです。
中がほぼ空だったのは、ずっと昔に盗掘されたあとだから、と考えられています。
将門が生まれるより、500年ほど前の墓です。
誰が眠っていたのかは、いまも分かっていません。
将門公の首塚で云々な話。あれ、正味な話、将門公って話になるの以前に古墳なんよ。元々上古代からの土地神なんだよね。むしろ後世の将門伝説がその畏怖を含めて雑に扱わないよう「鎮めている」場所なんではないかな。
(´・ω・)— マダム銀子🦊 (@foxy_kuzunoha) 2026年8月24日
この見方でいくと、先にあった塚に、あとから将門の名前がついたことになります。
将門公より前から誰かが眠っているなら、その誰かは何者なのか。
将門より、もっとヤバいものが封じられているのでは——ネットではそんな声まで出ています。
そして、この調査には続きがあります。
中を検分し終えたあと、塚はそのまま取り壊されました。
年表でいうと、1924年の仮庁舎の工事です。
祟りが始まったとされる、あの工事のことですね。
役所が崩したのは、将門の塚であると同時に、千五百年前の誰かのお墓でもありました。
写真に写っていた首塚は前方後円墳だった
石室のほかに、もうひとつ手がかりが残っています。
写真です。
鳥居龍蔵(とりいりゅうぞう)という考古学者がいました。
この人は震災のあと、焼け野原になった東京を歩き回って、市街地に残る塚を片っ端から見て回っています。
建物が焼けて視界が開けたぶん、ふだんは見えない地面の起伏まで見えたそうです。
首塚も、そのときに撮られました。
往来から1枚、裏から1枚。
写っているのは、こんもりと盛り上がった丸い土の山と、そこから手前へ張り出した低い台の部分。
上から見れば、鍵穴のような形になります。
前方後円墳の、あの形ですね。
帝都物語で履修したけど。将門公の首塚、以前はただ土が盛り上がってる所だったようで。
当時調べてみたら、元々小さな古墳で。発掘調査も行われてるのね。副葬品とかは盗掘され尽くしてて、誰が葬られてるかは不明。
でまあこのお方がパワフルにお祟りあそばしてて。そこに将門伝説が乗っかった模様
— かり~な(幸せ政虎派★支部でお話書いてます★) (@dhappiness2046) 2026年8月24日
この写真を計測した古墳の愛好家によると、丸い部分の高さは6メートルほど、全体では20メートルから30メートルほどの小ぶりなものだったと見られています。
写真が載っている『上代の東京と其周囲』という本は1927年(昭和2年)の刊行で、いまも国立国会図書館のデジタルコレクションで誰でも読めます。
では、この塚はどんな場所に築かれたのか。
いまの大手町は、徳川家康が来るより前は海のきわでした。
日比谷入江という入り江がこの辺りまで食い込んでいて、塚が建ったのは、その海を見下ろす岬の先でした。
ビルの谷間のあの一角は、千五百年前には海の見える高台でした。
将門ゆかりの塚は父の墓も古墳だった
ここまで来ると、気になることがひとつ出てきます。
塚と古墳が重なるのは、大手町だけなのか。
調べてみると、そうでもありませんでした。
茨城県常総市に、六所塚(ろくしょづか)という塚があります。
将門の父・平良持(たいらのよしもち)の墓と伝えられてきた場所です。
ここは全長70メートルの前方後円墳で、市の文化財に指定されています。
「記」では将門の父とされる平良持の墓とされていた六所塚前方後円墳。逆賊とされて五所塚から改名、悲しい。白膠木(ぬるで)のキッカブ(切株?)祭が明治まであったという。 pic.twitter.com/uDi7UdPA51
— 竜 РЮ Афанасий 🇺🇦 (@yappata2) 2026年8月26日
埼玉県の幸手市にも、将門の首塚と呼ばれる塚があります。
実際に訪ねた人によれば、こちらもどう見ても古墳の形をしているそうです。
埼玉県の幸手市にも
将門公の首塚と称するものがあって
郷土資料とか詳しく調べたわけではないけど
行ってみたら古墳っぽい
確かに茨城埼玉栃木群馬の県境辺りは将門公が駆け巡った辺りなので
伝承もうなづけます
ちなみに栃木県佐野市秀郷公のお墓も古墳っぽい
栃木県下野市の道鏡塚も古墳っぽい— かこちゃん文化部 (@mM416kizob) 2026年8月23日
なぜ、こうも重なるのか。
身も蓋もない話をすると、千年以上たっても残っている土の山は、たいてい古墳だからです。
誰の墓かは、数百年もすれば忘れられます。
それでも山だけは残るので、地元の人は目の前の大きな塚を、自分たちの知っているいちばん大きな名前で呼ぶようになる。
関東でいちばん大きな名前が、将門でした。
その呼び名の変わり方を説明する説もあります。
全国には「ショウモン塚」と呼ばれる塚がいくつもあって、このショウモンは唱門師(しょうもんじ)という、中世から近世の下級の陰陽師を指す言葉だった、という見方です。
そこへ「将門」の字が当てられていった——という筋書きです。
どこまで本当かは、これもまた確かめようがありません。
怖い話をたどっていったら、いちばん下から、名前の分からない誰かが出てきました。
神田明神は最初この首塚の場所に建っていた
では、名前のない塚は、いつ「将門の塚」になったのか。
じつは、その年は記録に残っています。
神田明神は、730年(天平2年)の創建と伝わります。
ただ、最初に建ったのは、いまの外神田ではありません。
武蔵国豊島郡の芝崎村(しばさきむら)——つまり、大手町のあの塚のあたりです。
神田明神は、もともとこの塚のそばに建っていた神社なんです。
つ【東京都遺跡地図web版】
↓以下ポイント
※塚にお墓の意味は無くて、人工的な土盛りの事。塚ってついてたら昔見た目が塚の何かがあった所
※東京の古来の海辺はずっと人が住んでて遺跡だらけ+実は古墳だらけ
※東京駅周辺は発掘ありきな地域
※将門塚は元々は神田明神境内
※封印と奉拝は全然違う— ながしま (@p0ire_) 2026年8月26日
時代が下って、1302年から1305年ごろ。
塚の周りで天変地異が続き、村の人たちが困り果てていたと伝わります。
その原因を、当時の人たちは将門の祟りだと考えました。
そこへ来たのが、時宗の僧・真教上人(しんきょうしょうにん)です。
1307年(徳治2年)、真教は将門へ「蓮阿弥陀仏(れんあみだぶつ)」という法号を贈りました。
そして自分の手で書いた板碑(いたび)を、荒れていた塚の上に建てて、塚を整えます。
その2年後の1309年(延慶2年)、将門は神田明神の祭神として合祀(ごうし)されました。
名前のない塚に将門の名前をのせたのは、学者でも役所でもありません。
祟りを鎮めたい、村の人たちの必死さでした。
将門塚がある場所は、平将門公よりさらに古い時代の古墳や塚があったともいわれる。
塚を壊そうとしたり、イタズラすると祟ると恐れられているのは、史実上の平将門公そのものではなく、長い年月の中で古い塚・土地の記憶・将門伝説が融合して生まれた「マサカド公」という神格なのかもしれない。 pic.twitter.com/gN83tG8Rr6
— 茗荷屋タカシ (@Myoga0615) 2026年8月26日
神田明神のほうは、そのあと江戸城の拡張で駿河台へ移り、1616年(元和2年)にいまの外神田へ落ち着きます。
神社は引っ越して、塚だけがその場所に残りました。
残された土地は、江戸時代には姫路藩・酒井雅楽頭(さかいうたのかみ)家の上屋敷になります。
酒井家も、塚をそのまま祀っていたそうです。
そして1871年(明治4年)、その屋敷跡へ大蔵省が入ってきました。
都内の古墳の多くが開発で消えていったなか、この塚だけが千年以上ものあいだ残った理由は、たぶんここにあります。
ずっと、誰かが勝手に手を出せない土地だったからです。
そのルールを最初に破ったのが、あの仮庁舎の工事でした。
将門が逆賊として外されていた110年間
合祀のあとの話にも、大きな空白があります。
将門は一度、神田明神の祭神から降ろされているんです。
1874年(明治7年)のことです。
明治天皇が神田明神を参拝することが決まりました。
そこで問題になったのが、朝廷に弓を引いた将門を、天皇が参拝する神社に祀っておいていいのか、という点でした。
結論として、将門は本社の祭神から外されます。
代わりに、茨城の大洗磯前神社(おおあらいいそさきじんじゃ)から少彦名命(すくなひこなのみこと)が迎えられます。
将門の霊は、境内の摂社(せっしゃ)へ移されました。
本社の三柱目の祭神に戻ったのは、1984年(昭和59年)。
外されてから、110年後のことです。
東京奠都の際、明治天皇が神田神社(神田明神)に行幸、逆賊であり憚りあるからという理由で平将門が本社祭神から外された。再び将門が本社祭神に復帰したのは戦後になってからで。その間、東京は関東大震災と東京大空襲で灰燼に帰している訳だが、まさかね(笑)
— zeong (@zeong_dictator) 2026年8月24日
ここで、祟りの年表をもう一度開いてみてください。
塚が壊されたのも、大臣と工事部長が相次いで亡くなったのも、1000年目の落雷も、ブルドーザーが横転したのも、日付はぜんぶ1874年から1984年のあいだに並びます。
祟りとして語り継がれてきたことは、将門が神社から降ろされていた110年に、まるごと収まっているんです。
もちろん、だから祟りだと言いたいわけではありません。
賽銭泥棒の「罰が当たった」も今回の騒ぎも、将門が戻ったあとの出来事です。
それにこの110年は、日本がいちばん激しく建て替えられた時期でもあります。
大手町が官庁街になり、震災で焼け、戦争で焼け、占領軍が地面をならしていった時期です。
塚のそばで何かが起きる回数が増えて当たり前の110年だった、とも言えます。
それでも、期間がここまできれいに重なると、順番のほうが気になってきます。
塚が荒れたから、祟りが語られたのか。
祀るのをやめたから、塚が荒れる時代が来たのか。
720年間も供養が続く首塚のほんとうの正体
では、祟りはただの思い込みで、この話はおしまいなのか。
最後に、ひとつだけ不思議が残ります。
年表のゆるさを誰より知っていたはずの当事者たちが、誰ひとり「じゃあ気にしない」を選ばなかったことです。
大蔵省は、鎮魂祭を開いたうえで、仮庁舎を取り壊しました。
戦後に首塚の一帯を整地しかけた工事も、結局は取りやめになっています。
ネットには「もし何の祟りもなかったら、首塚は撤去されるのか」という問いもありました。
これでもし向こう数年、愛之助に本当に何の祟もなかったら、首塚は撤去されるのかしらん…?
— シイカ (@e5MtQWwx5HGdtJX) 2026年8月22日
実際に起きてきたことは、その逆です。
さきほどの真教上人の板碑から、いまでちょうど720年ほど。
この塚は、そのあいだ途切れることなく供養され続けてきました。
いまも首塚には毎日のように線香が上がり、近隣の企業がつくる「史蹟将門塚保存会」が手入れを続けています。
祟りが本当かどうかは、たしかに確かめようがありません。
でも、720年分の線香は本当にそこで焚かれてきたし、蛙に託された祈りも、鎮魂祭を開いた役人たちの怖さも、ぜんぶ実際にあったことです。
首塚のほんとうの正体は、祟る塚というより、埋まっている人の名前が入れ替わってもなお、畏れと祈りが積もり続けてきた場所なのだと思います。
今回の騒ぎも、いつかは祟り話の年表に、1行として加わっていくはずです。
ただ、その年表の隣では、明日も誰かが線香を上げて、手を合わせています。
今度大手町を通りかかったら、線香の絶えないその一角だけ、少し違って見えそうですね。
