秋の田んぼの一角に、黒く枯れた水草と、とげの生えた実がびっしり。

千葉県の印旛沼のまわりで、いま実際に広がっている光景です。

2026年11月5日、日本農業新聞が《田に“まきびし”大量流入》という見出しでこの様子を伝え、ネットでは、まず「まきびし」という言葉に目が止まった人が多かった様子。

見出しだけを読むと、誰かが夜のうちに田んぼへ撒いていったような絵が浮かびますよね。

実際、てっきり誰かの嫌がらせだと思った、と書いている人もいました。

ところが、この「まきびし」を撒いた人は、どこにもいません。

田んぼへ実を運んできたのは、9月に堤防が切れた印旛沼そのものなんです。

今回は、田んぼで何が起きているのか、なぜ農家が秋の作業を始められないのかを調べてみました。

誰も撒いていない「まきびし」の正体

田んぼに散らばっているのは、ヒシという水草の実です。

池や沼の水面に葉を浮かべて育つ植物で、秋になると硬い殻のような実をつけます。

印旛沼に多いのはオニビシという種類で、実には鋭いとげが4本。

かつては忍者がこの実を武器の「撒菱(まきびし)」に使ったとも言われています。

では、なぜその実が田んぼにあるのか。

きっかけは、2026年9月の台風25号です。

記録的な大雨で印旛沼の水位が上がり、9月22日、北印旛沼の堤防が決壊しました。

沼の水をきれいに保つ活動をしている印旛沼環境基金によると、ヒシはちょうど決壊した堤防のあたりに茂っていたそうです。

堤防が切れて沼の水が田んぼへ流れ込んだとき、その水に乗って一緒に入ってきたとみられています。

決壊からほどなく、この件で取材に答えている専門家の西廣淳さん(国立環境研究所)も、田んぼに流れ着いたオニビシの写真を投稿していました。

ヒシは、9月の終わりにはもう田んぼに入っていたんです。

そして11月、次の作業の時期を迎えた田んぼで、その実が農家の手を止めています。

 

トラクターが入れない田んぼの事情

取材に答えた成田市の農家の男性(56)の田んぼは、今回の決壊で3.5ヘクタールが水につかったそうです。

そのうち一部は、枯れて黒く変色したヒシに覆われ、稲は押しつぶされていました。

困っているのは、秋作業です。

秋作業というのは、稲刈りを終えた田んぼを耕して、次の春に備えておく作業のこと。

ところが、その田んぼには、とげのある実が一面に転がっています。

「ヒシの実をよけて耕うんするしかないが、トラクターが踏んでしまいタイヤがパンクするかもしれない」と男性。

実が硬いので、土にすき込んでも「ちゃんと分解されるのか。水稲の生育に影響はないのか」と心配は尽きないといいます。

収穫が遅れていたところへ水が来た、という農家の投稿は、決壊したその日に出ていました。

水が引いてようやく次の作業へ、と思ったところで、今度は足もとに実が残っていたわけですね。

ここで少し意外なのが、西廣さんの説明。

ヒシは田んぼで肥料として使われてきた経緯もあるというんです。

ただ、大量にすき込めば有機物が多すぎることになり、放っておけば機械が傷んだり、とげで農家がけがをしたりするおそれもあるとのこと。

そのうえで「多量に堆積した場所では撤去が望ましい」と話しています。

ほどほどの量なら田んぼの栄養にもなる実も、沼から一度にこれだけ押し寄せると、農家の足を止めるまきびしになってしまうんです。

堤防が分けていたのは水だけではない

田んぼに流れ込んだのは、水と泥だけではありませんでした。

沼の中で育っていた植物も、堤防が切れたとたんに、水と一緒に田んぼへ入ってきています。

堤防は、沼の水だけでなく、沼に生えているものまで田んぼから遠ざけていたわけですね。

しかも、流れ込んだ水草はヒシだけではありません。

印旛沼には、ナガエツルノゲイトウという南米原産の水草が以前から広がっていました。

国が特定外来生物に指定している植物で、千葉県によると、育てることも、保管することも、運ぶことも法律で禁止されています。

茎がちぎれても節から根を出して増え、農林水産省によれば、茎や根のわずか1センチの断片からも再生するとのこと。

県の以前の調査では、印旛沼と流れ込む川で約7.8万平方メートルに生えていて、船を使った駆除を進めていたところでした。

決壊からまもなく、沼の排水機場がこの水草に覆われている様子を写した投稿も出ています。

FNNプライムオンラインによると、決壊場所から650メートルほど離れた田んぼも一面に水草が広がっていて、農家の男性は「せっかくの栄養がこっちの雑草に取られちゃう」と口にしていました。

冬のあいだは枯れたように見えても、土の中に残った根や断片が、暖かくなると再び伸びてくるそうです。

ヒシの実はとげがあって目に見えるぶん、まきびしという呼び名で先に話題になったもの。

けれど、10月31日に成田市が開いた説明会で県が呼びかけたのは、外来の水草のほうで、冬を越す前に早く見つけて防いでほしいという内容でした。

 

近くの田んぼでも見かけるものなのか

ネットには「近くの田んぼでも見かけるものなんでしょうか」という声も。

ヒシそのものは、日本各地の池や沼にふつうに生えている植物です。

長野県の諏訪湖でも、湖のほとりが黒く見えたので近づいたら全部ヒシの実だった、という投稿がありました。

水辺を散歩していて、とげのある黒い実を見かけたことがある人は、きっと少なくないはず。

ただ、ヒシの実が田んぼ一面に入り込むのは、沼と田んぼを仕切るものが壊れたときです。

ふだんの田んぼが、ある日いきなりまきびしだらけになることはまず考えにくいでしょう。

水辺で覚えておきたいのは、2つだけです。

  • ヒシの実は、とげが鋭いので素手で触らない・はだしで踏まない
  • 茎が絡み合った見慣れない水草を見つけても、持ち帰らず、市町村へ知らせる

2つ目が大事なのは、ナガエツルノゲイトウがあるから。

きれいにしようと思って抜いて運ぶと、ちぎれた断片が別の場所で根を出してしまうおそれがあります。

日本農業新聞も、記者のコラムに《見つけたら市町村に報告を!》という見出しを立てていました。

春の田植えまでに残された時間

では、田んぼに入り込んだ実や水草は、誰が片づけるのでしょうか。

千葉県は、今回の決壊で農地に流れ込んだものを撤去する費用を支援する方針で、支援額などはこれから具体的に決めるとしています。

成田市によると、市内では500ヘクタール以上の農地が水につかり、収穫前だった稲はおよそ130ヘクタールが被害を受けました。

被害額は1億1500万円余り。

市は国の災害復旧事業を使って、来春までを目標に農道や排水路を整えていく方針を示しています。

切れた堤防のほうは、10月のはじめに、決壊した場所をふさぐ最初の工事が終わりました。

ただ、産経新聞の記事によると、田んぼや農道が水につかったままの場所がまだ残っているとのこと。

田んぼに水を引くための揚水施設もポンプが壊れたままで、流れ着いたがれきや稲わら、外来の植物が積もって、片づけに手をつけられずにいる農家も目立つといいます。

地域の農家の声を取りまとめてきた、稲作農家の男性(64)の言葉です。

「春に作付けできなければ、この一帯の稲作農家はみな、来年1年間の生産ができなくなってしまう。11月、12月…、3月までもう時間がない」

堤防がふさがっても、沼から来たものは田んぼの上に残ったままです。

まきびしという響きには少し笑ってしまいますが、農家にとっては、春の田植えまでに一つずつ片づけなければならないものばかり。

来年の春も印旛沼のまわりの田んぼに稲が並ぶよう、撤去の支援が早く届いてほしいですね。