2026年9月17日の朝、あるお菓子屋さんの厨房の写真が、ネットで一気に広まりました。

写っていたのは、丸い生地がびっしり並んだ天板と、赤いトッピングの散ったまな板。

その奥に、ベビーカーがひとつ。

中にいたのは、生後4か月の赤ちゃんでした。

「こわい」「保健所に言ったほうがいい」という言葉が、あっという間に並びます。

そしてその横に、こういう声も混ざっていました。

そもそも、厨房に赤ちゃんがいるのは違法なんでしょうか。

 

気になったので、食品衛生法の条文をそのまま開いて確かめてみました。

そこに書いてあったことを、法律を読むのがはじめての人にも伝わる形で、わかりやすく解説していきたいと思います。

おむつを替えたと書いた人はいない

まず、広まっていく途中で形の変わったところを、ひとつだけ整理しておきましょう。

もともとの投稿を出していたのは、お店の側でした。

書かれていたのは、こんな内容です。

  • その日は雨予報だったこと
  • 4か月になった赤ちゃんに見守られながら仕込みと営業をしていること
  • ベビーカーからの眺めにも飽きるようで、控え室で寝転がって寝返りの練習をしていること
  • ケーキが完売したら赤ちゃんも早く帰れるので喜ぶこと

読んでのとおり、お客さんへの呼びかけの文章でした。

ところがネットで回っていくうちに、話はだんだん「厨房でおむつを替えている」という形になっていきます。

おむつを替えた、という記述は、文章にも写真にも出てきません。

出てくるのは「おむつをしている赤ちゃんがそこにいた」というところまででした。

一語ぶんだけ、外側で足されたわけです。

 

こういう形の変わり方は、バズった投稿ではよく起きます。

最初の一文にあった条件がぽろりと落ちて、結論だけが遠くまで歩いていくんです。

落ちたことに誰も気づかないまま、その結論に向かって次の人が怒る、という順番になります。

 

とはいえ、だから騒ぎすぎだ、という話でもありません。

写真には、素手で作業をしている腕と、壁ぎわに立てかけられた掃除道具も一緒に写っていました。

読み違えたわけではなく、「うわ」と思ったのは目に入ったものへの反応です。

気持ち悪いと感じた人と、微笑ましいと思った人が、まったく同じ1枚を見ている状態でした。

そのうえで、決まりの側がどうなっているのかを、ここから見にいきましょう。

条文に赤ちゃんという字はなかった

飲食店やお菓子屋さんを開くときは、保健所から営業許可をもらいます。

ケーキやクッキーを作って売るなら菓子製造業、店内で食べてもらうなら飲食店営業、というように、やることに合わせて種類が分かれている仕組みです。

その許可を出すときの物差しになっているのが、食品衛生法と、その下にある施行規則でした。

施設の作りについての基準と、毎日の衛生管理についての基準が、細かい表の形で並んでいます。

 

2021年からは、小さなお店も含めて、この衛生管理の記録を残すことが義務になりました。

食中毒が起きてから調べるのではなく、危なくなりそうな工程を先に決めて、毎日そこを見張っておきます。

HACCPと呼ばれているこの考え方が、町のケーキ屋さんにも入っているんですね。

決めておく中身は二つあって、ひとつは毎日どこを清潔に保つかという一般的な衛生管理、もうひとつは加熱や冷却のように、そこを外すと危なくなる工程の見張りになります。

厚生労働省が記録用のアプリまで配っているくらいなので、対象は大きな工場だけではありません。

さて、その条文です。

ネットでは「国のガイドラインに、赤ちゃんを厨房に入れてはいけないと書いてある」という説明が、かなりの数まわっていました。

そこで施行規則を頭から開いて、関係しそうな表を全部読んでみたんです。

赤ちゃんも、乳幼児も、子どもも。

どの言葉も、条文には一度も出てきませんでした。

 

拍子抜けしたでしょうか。

ただ、無いのは「赤ちゃん」という単語だけで、この件に当たる条文そのものは、ちゃんとありました。

しかもそれが、なかなか厳しい書かれ方をしています。

書いてあるのは禁止ではなく条件のほう

該当するのは、施行規則の別表第17という表の中の一行です。

食品を扱う人の衛生管理について並んでいる項目の、いちばん最後にこうあります。

「食品等取扱者以外の者が施設に立ち入る場合は、清潔な専用の作業着に着替えさせ、本項で示した食品等取扱者の衛生管理の規定に従わせること」

 

「食品等取扱者」は、その施設で食品を扱う人のこと。

つまりこの一行は、それ以外の人が入ってくる場面を想定して書かれています。

 

そして肝心なのは、そこに「入れてはいけない」と書いていない点なんです。

書いてあるのは「入れるなら、働いている人と同じ決まりに従わせること」のほうでした。

立ち入りそのものを禁じるのではなく、入るなら条件を満たせ、という形になっているわけです。

 

ここだけ読むと、ずいぶん緩く見えるかもしれません。

実際、納品の業者さんが荷物を持って入ることも、機械の修理に人が来ることもあります。

そのたびに全部だめだと言い出せば、お店が回らなくなってしまうでしょう。

一律に締め出す書き方を取らなかった、と読むと、理屈は通っています。

問題は、その「同じ決まり」の中身でした。

4か月の赤ちゃんに守れる項目がない

同じ表の、同じ項目に何が並んでいるのか。

主なものを抜き出すと、こうなります。

  • 作業のときは目的に応じた専用の作業着を着る。必要に応じて帽子とマスクも
  • 手洗いの妨げや異物混入の原因になりそうな装飾品を、施設内に持ち込まない
  • 爪を短く切り、手洗いをして手指を清潔にする
  • 用便のあと、生の材料を扱ったあとは、十分に洗浄と消毒をする
  • 手指や器具を不必要に汚染させない
  • 痰や唾を吐かない
  • くしゃみや咳の飛沫を食品に混入させない、そのおそれを生じさせない
  • 決められた場所以外で、着替え・喫煙・飲食をしない

生後4か月の赤ちゃんを、ここに当てはめてみてください。

専用の作業着に着替える。

帽子とマスクをつける。

くしゃみの飛沫を飛ばさないようにする。

決められた場所以外では飲み食いを控える。

ひとつとして、守れるものが見当たりません。

 

つまり、こういうことになります。

法律は赤ちゃんの名前をどこにも書いていないのに、通れる道は一本も残していません。

禁止の一行が無いのは、赤ちゃんを想定していないからではなく、そもそも人を見て線を引いていないからでした。

決まりが見ているのは、その人が誰かではなく、決まりを守れるかどうか。

だから「赤ちゃんはダメと書いてありますか」と聞けば、書いていませんという答えが返ってきて、「じゃあ入れていいですか」と聞けば、実際には無理、という答えになります。

 

ちなみに、素手で作業していたことはどうなのでしょうか。

条文を見ると、手袋は「使用する場合は」という書き方でした。

手袋をつけること自体は、義務になっていません。

求められているのは爪と手洗いのほうです。

手袋をしていないから違反、という単純な話ではないところは、押さえておきたいところですね。

動物と箒には名前が書いてある

ここまで来ると、もうひとつ見えてくるものがあります。

赤ちゃんの名前は出てこないのに、名指しで書かれているものが同じ表にあるんです。

 

ひとつは動物でした。

「食品又は添加物を取り扱い、又は保存する区域において動物を飼育しないこと」

犬や猫には、はっきり一行が与えられています。

 

もうひとつが、掃除道具。

こちらは二か所に出てきます。

毎日の衛生管理では「使用の都度洗浄し、乾燥させ、所定の場所に保管すること」。

そして施設の基準では、清掃用の専用の用具を必要な数そろえて、その保管場所を設けること、と決められていました。

つまり箒とちりとりには、営業許可を取る段階で置き場所が用意されているわけです。

同じ表には「製造し、加工し、調理し、貯蔵し、又は販売する場所に不必要な物品等を置かないこと」という一行も入っています。

 

ネットで挙がっていた心配ごとは、大きく分けて三つでした。

赤ちゃんがいること、素手で作業していること、それに掃除道具が出しっぱなしだったこと。

そのうち条文が名前を書いていたのは、三つ目のほうでした。

声の大きさと、決まりの厳しさは、並び順がそろっていません。

客が確かめられるのは線のほう

では、あの「控え室」はどうなるのでしょうか。

施設の基準には、こういう一文があります。

住居など、食品を扱う目的ではない部屋や場所が同じ建物の中にあるときは、それらと区画されていること。

区画というのは、壁や扉できちんと仕切るという意味です。

仕切りの向こうに控え室があるなら、赤ちゃんが待っているのは作業場の外になります。

 

外から見ていると、どうしても分からないのがこの部分です。

1枚の写真に作業台とベビーカーの両方が写っていたとしても、そこに扉があるのかどうかまでは映りません。

線が引かれているかどうかを、確かめられるのは許可を出した保健所だけです。

こちらが持っているのは、線の手前で撮られた1枚だけなんですよね。

 

そのうえで、お店に入ったときに見られるものを三つだけ挙げておきます。

  • 厨房と、それ以外の場所のあいだに、扉や仕切りがあるか
  • 掃除道具に定位置があるか(壁のフックなど。置き場所は基準になっている)
  • 気になったときの相談先は、お店のSNSではなく地域の保健所

三つ目は、通報しましょうという意味ではありません。

食品衛生は見た人が判定する仕組みではなく、許可を出した側が見にいく仕組みになっています。

お店の投稿に押しかけても、線が引かれているかどうかは分からないままです。

保健所には食品衛生監視員という職員がいて、許可を出したあとも施設を回って見ています。

相談が入れば、中に入って確かめられる立場の人たちです。

こちらが写真の前で言い合っているあいだ、確かめる手立てを持っているのは、ずっと保健所の側なんですよね。

 

あの1枚を見て「こわい」と思った感覚は、条文を読んだあとでも、間違ってはいませんでした。

ただ、こわさの正体は赤ちゃんそのものではなく、決まりが人ではなく条件で線を引いているところにあります。

赤ちゃんを禁じた一行は、探しても出てきません。

それなのに、通れる道も無いまま。

そういう作りになっていると知っておくと、次に似た写真が流れてきたとき、ずいぶん静かな気持ちで見られる気がします。

この記事で参考にした情報

  • 食品衛生法(昭和22年法律第233号)と、食品衛生法施行規則(昭和23年厚生省令第23号)の条文
  • 施行規則の別表第17=公衆衛生上必要な措置の基準。施設の衛生管理、食品を取り扱う者の衛生管理などの項目
  • 施行規則の別表第19=すべての営業許可業種に共通する施設の基準。区画、清掃用具の保管場所、手洗い設備などの項目
  • 厚生労働省の食品安全に関する案内(HACCPの考え方を取り入れた衛生管理、衛生管理記録アプリの配布)

条文はいずれも、e-Gov法令検索で誰でも読めるものです。