宇多田ヒカルのMステ『放送事故』|イヤモニで声が聞こえなくなる理由

2007年3月2日、テレビ朝日の『ミュージックステーション』の生放送。
宇多田ヒカルがステージの真ん中に立ち、きょろきょろとあたりを見回したあと、腰のあたりをのぞき込み、片手を耳もとへ持っていきます。
そのまま『Flavor Of Life』の最初の一節が始まり、手を耳に添えたまま歌い出す30秒ほどの映像が、いまXでもう一度大きく広まっているところ。
この映像は2025年10月にも一度広まっていて、そのときはこんな言葉とともに紹介されていました。
トラブルでイヤモニの返しが来てない宇多田ヒカル。先日やったライブで同じことが起きてPAの音だけを頼りに演奏するのは地獄だった。それでも何とかするのがプロなんだよなー🤔 pic.twitter.com/OCA2Fl3jpZ
— chocoriro🙈 (@mashitahajime) 2025年10月17日
今回広まっている投稿についていたのは「イヤモニが無いことに気づく」「自分の声が一切聞こえず」という説明。
その下には、「なんで自分の声が聞こえないの?」という素朴な疑問と、「プロなら当たり前」という声が、並んで返ってきました。
今回は、イヤモニを付けているのに、なぜ自分の声が聞こえなくなるのかを、初めて聞く人にもわかりやすく解説していきたいと思います。
歌い出す前に耳を触っていた数秒
歌われていたのは、ドラマ『花より男子2(リターンズ)』で流れた『Flavor Of Life』を、ゆったりしたバラードに仕立て直した『Flavor Of Life -Ballad Version-』です。
画面の中の宇多田ヒカルは、歌の前に何度かあたりを見回し、腰の後ろを確かめるように体をひねり、耳のあたりに手をやっていました。
歌い始めてからもしばらくは手が耳もとと胸のあたりを行き来していて、やがて両手でマイクを包むように握り直しています。
返信には「覚悟を決めたあとの、プロの顔になるところが鳥肌が立つほどかっこいい」という声も並んでいて、たしかに歌い出してからの声には、迷いがまったく見えません。
そもそもイヤモニは「イヤーモニター」の略で、歌い手が耳に入れて、自分の声や伴奏を聞くための小さなイヤホン。
ただ、拡散した投稿の説明と、前からこの場面を語ってきたファンの言い方は、少し食い違っていました。
拡散した投稿は「イヤモニが無い」と書いていますが、2020年の時点でこの場面を紹介していたファンの投稿は「返しが来てなかった」と書いているんです。
2007年3月2日 Mステ
宇多田ヒカルのイヤモニに返しが来てなかった回 pic.twitter.com/RkfervF4mi— ْ (@jacky696a) 2020年4月27日
返しというのは、そのイヤホンへ送り返されてくる音を指します。
つまりファンの投稿は、イヤホンそのものは耳に入っていて、そこへ届くはずの音が来ていなかった、という意味です。
ほかにも「送信機の辺りを終始触って」いた回だ、と書いていたファンがいました。
イヤモニはふつう、耳のイヤホンと、腰につける小さな機械(ファンの言う送信機)がつながっているので、歌の前に触っていた耳と腰は、ちょうどその通り道にあたります。
この日のトラブルについて、本人が説明した言葉は見当たりません。
何が壊れていたのかまでは、外からは確かめられないままです。
当時リアルタイムで見ていた人の中には、「あれ?様子おかしいな」と思いながら見ていたと振り返る人もいました。
イヤモニは両耳をふさぐ耳栓
イヤモニという道具がどういうものなのかは、宇多田ヒカル本人がずっと前に説明しています。
2010年11月、ファンから「イヤモニって片耳なんですか?」と聞かれたときの答えが、こちらです。
イヤモニは耳型を取って作るカスタム仕様で、耳の奥までねじこんでびっしり耳を塞ぐもの。両耳ね。基本的にMCでは外し、曲の間もマイクでお客さんの声拾って、耳に返してもらってるよ! RT @sawasawacocco: イヤモニって片耳なんですか?声援とかってどんな風に聞こえるのかな~
— 宇多田ヒカル (@utadahikaru) 2010年11月2日
本人の言葉を借りると、耳の型を取って作り、耳の奥までねじこんで、両耳をびっしり塞ぐもの。
自分の耳の形に合わせて作った耳栓に近い道具なんですよね。
曲の間はお客さんの声もマイクで拾って耳に返してもらっている、とも書いていて、外の歓声まで、わざわざ送り返してもらって聞いているんです。
曲と曲のあいだのおしゃべりでは、基本的に外しているとも書いていました。
では、その耳栓に何の音も送られてこなかったら、どうなるでしょうか。
いちばん先に困るのは、伴奏やスタジオの音がほとんど入ってこなくなることです。
返信の中には「外音は聴こえるでしょ?」「スタジオで歌ってるけどそれでも自分の声聞こえないの?」という疑問もありました。
両耳を自分で密閉している以上、ライブ会場でもテレビのスタジオでも、外の音はかなり遠くなってしまいます。
もう1つ困るのが、自分の声の聞こえ方。
手のひらで両耳をぎゅっとふさいでしゃべると、自分の声がこもって、頭の内側で響くように聞こえますよね。
これは「閉塞効果(へいそくこうか)」と呼ばれる現象で、耳の穴をふさぐと、骨を伝わってくる低い響きが強く聞こえるようになる、と説明されています。
ふだん耳で聞いている自分の声とは、まるで別物。
「自分の声だからモニター通さなくても聞こえます」という返信も半分は当たっていて、声そのものは聞こえています。
ただ、聞こえているのは耳栓の内側でこもった声で、音程を合わせる物差しにするには心もとない音です。
イヤモニが広まる前は、歌い手は足もとに置いた「ころがし」と呼ばれるスピーカーから自分の音を聞いていました。
音楽事務所のソニー・ミュージックアーティスツは、1990年代の終わりに自社サイトの質問コーナーで、それをどこにいても安定して聞こえるように耳の中へ移したのがイヤモニだと説明しています。
同じ解説には「日本でも次第に普及してくると思われます」とあって、当時はまだこれから広まる道具という扱いでした。
ファンの投稿のとおり返しが来ていなかったのだとすれば、あのとき宇多田ヒカルは、耳をふさいだまま伴奏の聞こえない状態で歌い出していたはずです。
歌い出す前に何度も耳を触っていた手の意味が、少し違って見えてきませんか。
放送事故と呼ぶには静かすぎた
拡散した投稿は、この場面を「日本の音楽史上もっとも美しい放送事故」と呼んでいました。
これに対して返信の中には、「放送事故じゃなくて音響トラブルじゃないのこれ?」と首をかしげる人もいます。
言葉の使い方で言えば、この指摘は的を射ているんです。
国が放送局に報告を求める「重大な事故」は、放送の設備が原因で放送そのものが止まった事故だとされています。
ネットで言う放送事故も、ふつうは画面が真っ暗になる、音が消える、といった視聴者に届く側の乱れのことですよね。
ところがあの日、テレビの前の人に届いた音は、この映像を見るかぎり一度も途切れていません。
伴奏も歌声も、ふだんの放送と同じようにお茶の間へ流れていました。
乱れていたのは、ステージの上に立つ1人の耳の中に届く音だけ。
視聴者が異変に気づけた手がかりも、耳を触る仕草だけでした。
テレビの前では何も起きていないのに、本人だけが伴奏の聞こえない中で歌い出そうとしていたんですよね。
「放送事故」と呼ぶには、あまりに静かなトラブルだったとも言えます。
あのとき本人の耳の中で起きていたことを、別の人が短い言葉で言い表していました。
歌って、自分の声が聞こえないと音程が取れないんだよ。大音量の中、まともに返しのない状態で歌うのは、『目を閉じたまま、向こうのリンゴを矢で射てみなさい』と言われるのとおんなじだよ。ところでなんでジュノンはイヤモニぶらぶらさせたまま歌えるの😳😳😳
— 🎯🐢🎯あおい🎯🐢🎯 (@mocha_gospel) 2026年8月9日
自分の声が聞こえない中で歌うのは「目を閉じたまま、向こうのリンゴを矢で射てみなさい」と言われるのと同じ、というたとえ。
見えないまま的に当てる難しさと、聞こえないまま音程に当てる難しさは、よく似ていますね。
「プロなら当たり前」が半分だけ正しい理由
返信欄でもう1つ目立っていたのが、「本物の歌手なら当たり前なんじゃない」「何千回と練習した自分の曲で」という声でした。
「80年代、90年代のバンドはイヤモニなんて無かった」と書いた人もいます。
その一方で、「プロなんだから当たり前、というのは違うと思います」と書き、客席に向けたスピーカーと歌手に向けたモニタースピーカーは役割が違う、と説明していた人もいました。
「当たり前」と言う人たちの言い分にも、うなずけるところはあります。
イヤモニについてまとめていた人も、「本来、理想的な環境であればイヤモニなしの方が歌いやすい」と書いていました。
イヤモニ についてまとめてみた
超長文😇
興味ある人だけ読んで1️⃣ 本来、理想的な環境であればイヤモニなしの方が歌いやすい
イヤモニを使うと、自分の声の聞こえ方が変わり、違和感を感じることがある。
そのため、できることならイヤモニなしで歌える方が自然で歌いやすい。2️⃣ 理想的な環境とは…
— LEMON. (@lemon_nuna22) 2025年2月18日
ソニー・ミュージックアーティスツの解説も、イヤモニには「クリア過ぎてライブ感に欠ける」というマイナス面もあると書いています。
耳があいていて、足もとのスピーカーから伴奏が返ってくる舞台なら、慣れた歌い手は何も付けずに歌えるでしょう。
ところが、イヤモニを付けて本番に臨む人にとっては、話が変わってきます。
耳はびっしりふさがっていて、外の音は遠く、自分の声はこもったまま。
リハーサルで頼りにしていた音の手がかりが、本番の一瞬で消えてしまいます。
「イヤモニなんかなくても歌えるでしょうよ」と書いた人でさえ、続けて「アジャストさせたのはさすがだと思う」と添えていました。
僕も、あの数秒で手がかりを探し、そのまま最初の一節を歌いきったところに、いちばん驚かされます。
耳があいている舞台の話なら、プロなら当たり前と言えるかもしれません。
でも、耳栓をしたまま伴奏が消えた中で同じことをするのは、当たり前で片づけるには少し酷な気がします。
返しが来ないトラブルはいまも起きる
19年前の話だと思うと、遠い昔のハプニングに見えるかもしれません。
ところが、返しが来ないトラブルは、いまもあちこちの舞台で起きています。
2025年10月にこの映像を紹介した人は、「先日やったライブで同じことが起きて」と自分の経験を重ねていました。
その人は、客席向けのスピーカーの音だけを頼りに演奏するのは「地獄だった」と書いています。
フェスの出番の最初に、イヤモニのイヤホンをミキサーに挿し忘れたまま曲を始めてしまった、という体験を映像ごと見せている人もいました。
METROCKで出番開始早々
イヤモニ(これがないと音の返しが聞こえない)のイヤホンをミキサーに挿し忘れたまま曲を始めてしまい、助けてもらって安心と思ったら今度はマイクが落ちてコーラスができず散々やった私を見てくれ pic.twitter.com/orYzlwB9Fp— モリヲ (@mrmr_hkhk) 2024年5月15日
挿し忘れたイヤホンが1本あるだけで、耳は一瞬で、ただ栓をしただけの状態に変わってしまう。
ふだん、歌い手の耳の中で何が起きているかは、客席からはまず見えません。
あの30秒は、ふだん見えない耳の中のトラブルが、たまたまカメラの前に映ってしまった記録でもあります。
あの映像をもう一度見る前に、一度だけ両耳を指でふさいで、好きな曲を口ずさんでみてください。
耳もとに手をやったまま最初の一節を歌いきるあの30秒が、もう一段すごく見えてきますね。
