抜歯のために紹介された病院で、麻酔をかけているのは自分ひとり。

そんな笑うに笑えない場面を、麻酔科医だという人が2026年10月3日のお昼にネットへ投稿しました。

歯を診てもらったら「全身麻酔で抜いたほうがいい」と言われて、病院の口腔外科を紹介されることになった、とのこと。

ところが、その紹介先が自分の勤め先でした。

「◯◯病院で全身麻酔ですか。あそこで麻酔かけてるの僕で麻酔科医僕しかいないんですよね。」

 

表示回数は1,100万回を超えて、返信欄はあっというまに大喜利の会場になりました。

ひとしきり笑ったあとで、ふと真顔になった人も多かったはずです。

歯を抜くのに全身麻酔なんてあるのか、麻酔科医がひとりしかいない病院なんて普通なのか、こういうとき実際はどうなるのか。

今回は、抜歯で全身麻酔になるのはどういうときなのかも含めて、この笑い話に隠れていた3つの疑問を、親知らずを抜く予定がある人にも役立つ形でわかりやすく解説していきたいと思います。

「麻酔科医はひとりだけ」に笑いが集まった

投稿は、ほとんど会話だけで組み立てられていて。

先生が「うーんこれ抜歯しちゃった方が良いね。全身麻酔の方が良いと思うよ。」と言い、紹介先の病院の名前を出す。

そこへ投稿した本人が、その病院で麻酔をかけているのは自分ひとりだと返します。

最後はふたりとも「・・・」で黙ったまま、話はそこでおしまい。

この沈黙が、なんともいえないおかしさを生んでいるんですよね。

 

返信欄でいちばん伸びたのは、たったひと言のこの返しでした。

ほかにも「セルフ手術しかない」「ブラックジャックも自分で手術してたよ」と、ツッコミが次々に重なっていきます。

CTの画像を読む担当が自分だった、という同じ形の「実話」を重ねる人まで現れました。

引用のなかには、自分の髪をカットできないカリスマ美容師のジレンマにたとえる声も。

「勤め先で治療したくないから外に行ったのに紹介されるやつ…」と、身に覚えがあるように書いている人もいました。

専門の仕事をしている人ほど、自分がお客さんの側に回ったときに困る場面があるのかもしれません。

 

ただ、笑いの合間に、まじめな質問もちゃんと混ざっています。

  • 「え?まぢな話、こういう場合ってどーなるんですか?」
  • 「麻酔科医が1つの病院に1人なのは割とあることなのですか?」
  • 「抜歯で全麻が良いとかどんな面白い埋伏歯だよ」

大喜利のすぐ隣に、役立つ疑問が3つ並んでいました。

抜歯で全身麻酔になるのはどんなとき

歯を1本抜くのに全身麻酔、と聞くと、ずいぶん大げさに聞こえるもの。

ふつう思い浮かべる抜歯は、歯ぐきに麻酔の注射をして、その日のうちに帰るものですよね。

それでも口腔外科のある病院には、局所麻酔では難しい人のために、眠った状態で抜く方法があるんです。

 

東京都保健医療公社の大久保病院は、歯科口腔外科の案内で、この使い分けをこう説明しています。

  • 静脈麻酔の例は「治療に対する強い不安や恐怖がある方」「嘔吐反射が強い方」「深い位置に埋伏した親知らずの抜歯」で、1泊2日の入院
  • 全身麻酔の例は「複数本の親知らず抜歯」「長時間に及ぶ手術」「局所麻酔では対応困難な症例」で、2泊3日の入院

「埋伏」というのは、歯が歯ぐきや骨の中に埋まったまま、まっすぐ生えてこない状態のことです。

深く埋まった親知らずや、上下左右をまとめて抜くような場合が、全身麻酔の出番だと思っておけばよさそう。

入院の日数は病院によって違っていて、国家公務員共済組合連合会の立川病院の案内では、全身麻酔なら4〜5日の入院で、上下左右を同時に抜くこともできると書かれています。

 

静脈麻酔(静脈内鎮静法)というのは、点滴から薬を入れて、眠ったような状態で受ける方法のこと。

全身麻酔ほど深くは眠らないものの、怖さや吐き気が強い人にはこちらがすすめられることもあります。

町の歯医者さんで「うちでは抜けないので、大きい病院へ」と言われる流れは、けっして珍しくありません。

今年4月には、まさにその場面から始まる体験漫画がたくさん読まれていました。

漫画は、町の歯医者さんに「うちじゃ治療できない!大きい病院行って〜」と送り出されるところから始まります。

今回の麻酔科医の投稿も、外の先生から病院の口腔外科へ紹介される途中で起きた出来事でした。

 

ちなみに、歯科の側にも麻酔の専門家がいるんです。

歯科医師のなかの「歯科麻酔科医」で、日本歯科専門医機構は、その仕事を「主に手術室での口腔外科手術の全身麻酔を担当しています」と紹介しています。

歯科麻酔専門医になるには、5年間専従して500例以上を経験し、試験に合格する必要があるそうです。

口腔外科の全身麻酔を誰が担当するかは、病院によって変わってくるんですね。

麻酔科だけは名乗るのに国の許可がいる

返信欄でくり返し出てきたボケが「セルフ麻酔」でした。

ただ、その中には、半分まじめに首をかしげている人もいます。

この問いに答えるヒントは、麻酔科という診療科のちょっと変わった決まりの中に。

病院やクリニックが掲げる診療科の名前は、医療法の決まりの範囲で選ぶことになっています。

そのなかで麻酔科だけは、名乗る医師ひとりひとりに厚生労働大臣の許可が必要とされているんです。

許可が要るのは「麻酔科」という看板を出すほうで、麻酔そのものは医師が担当できる仕事として扱われています。

 

厚生労働省がまとめた「麻酔科標榜医制度の概要」によると、許可の基準は次の2つ。

  • 麻酔の修練ができる病院などで、2年以上修練をしたこと
  • 2年以上麻酔の業務に従事し、気管への挿管による全身麻酔を300症例以上実施した経験があること

この制度が始まったのは1960年(昭和35年)で、許可を受けた医師は2021年4月1日の時点で約23,500名。

病院が「麻酔科」を広告するときは、許可を受けた麻酔科医の氏名もあわせて載せなければならない、とも書かれています。

麻酔科は、看板を出せる医師を国がひとりずつ確かめている診療科なんです。

あの投稿の「自分しかいない」という詰み具合は、たまたまではありません。

代わりがすぐには見つからない仕組みが、最初から作られていると言ってもいいと思います。

 

では、なぜそこまで決まりが厳しいのでしょうか。

全身麻酔は、薬を入れて眠らせたら終わりの仕事ではありません。

日本麻酔科学会の「安全な麻酔のためのモニター指針」は、最初の項目に「現場に麻酔を担当する医師が居て、絶え間なく看視すること」を置いています。

酸素の量や呼吸、心電図、体温までモニターで追い、血圧は「原則として5分間隔で測定」するよう求めているのも、その中身です。

返信欄にも、ちゃんとそこを突いた人がいました。

眠っている本人が、自分の呼吸を見張ることはできません。

セルフ麻酔がボケとして成り立つのは、本当にできないことだと誰もがうすうす分かっているからなのでしょう。

麻酔科医がひとりの病院はどうしているのか

残る疑問は、いちばん素朴なこれでした。

まず、麻酔科医の少ない病院がめずらしいのかというと、そうでもないようです。

日本麻酔科学会が2011年に全国の一般病院へ行ったアンケート(回答1,284施設)では、常勤か非常勤かを問わず麻酔科に専従する医師がいたのは56%でした。

常勤の麻酔科医が「充足している」と答えた施設は、わずか15%。

足りない理由としていちばん多かったのは、「充当できる人員がいない」という答えでした。

少し前の調査ではありますが、麻酔科医が足りないのは、一部の病院だけの話ではなかったことがわかります。

 

では、足りない病院では手術の麻酔を誰がかけているのか。

同じ調査で、一般病院の麻酔の担当を割合で見ると、常勤の麻酔科医が52%、院内の外科系の医師が19%、そして院外から来る麻酔科医が22%でした。

5件に1件ほどは、外から来た麻酔科医が担当していた計算になります。

返信欄の「他の麻酔医が居る病院紹介してもらう」「病院に麻酔医だけ応援に来て貰う」という予想は、どちらも実際にある道だったわけですね。

もちろん、投稿した本人がこのあとどうするのかは、どこにも書かれていません。

 

あの「・・・」は、麻酔科医がひとりの病院では、その人自身が患者になる日も来るという、当たり前すぎて誰も口にしなかった事実を突いていました。

だからこそ、笑ったあとに少しだけ心配する声も出たのだと思います。

返信欄には「単なる笑い話でなく、緊急手術が必要な時でも他所まで行かないといけないというのは、せっかく手術のできる病院にいるというのに、何とも歯痒いですね。」という声がありました。

産婦人科の麻酔をめぐる話題を引き合いに、「必要とされる方が麻酔してもらえる世の中にしたい」と書いた人もいます。

そして、この話は読んでいる側にとっても他人事ではありません。

親知らずで病院を紹介されたら、受診のときに次の3つを聞いておくと安心です。

  • 局所麻酔、静脈麻酔、全身麻酔のどれで抜く予定か
  • 麻酔を担当するのは麻酔科医か、歯科麻酔科医か
  • 入院は何日で、上下左右をまとめて抜けるか

麻酔の担当がわかっていれば、手術の日程が麻酔科医の都合で決まることにも納得しやすくなるでしょう。

 

投稿は、ふたりの沈黙のまま終わっていて、その先は書かれていません。

ただ、あの沈黙の向こうでは、どこから麻酔科医に来てもらうかという、病院ではわりとふつうの相談が始まっていたのかもしれませんね。

なお、僕は専門家ではないので、抜くかどうかや麻酔の方法は、必ず担当の先生と相談してください。

親知らずの紹介状をもらったら、麻酔の担当の先生のことも一緒に聞いてみてくださいね。

この記事で参考にした情報

制度と数字は、次の資料で確かめています。

  • 麻酔科の許可制度=厚生労働省「麻酔科標榜医制度の概要」
  • 全身麻酔中の見張り=日本麻酔科学会「安全な麻酔のためのモニター指針」
  • 麻酔科医の人手=日本麻酔科学会「麻酔科医のマンパワーに関する調査(マンパワーアンケート)結果報告(概要)」(2012年2月20日)
  • 抜歯の麻酔と入院=東京都保健医療公社 大久保病院 歯科口腔外科「診療内容」/KKR立川病院「親知らず抜歯について」
  • 歯科麻酔科医=日本歯科専門医機構「歯科麻酔専門医」